キリスト者の模範 公教会の教父たち

公教会(カトリック教会)の諸聖人、教父、神父らの伝記を掲載していきたいと思います。彼らは、クリスチャンの模範です。イエス様の生き方を見習うことはとても価値があります。使徒ヨハネやパウロの生き方に倣うことも価値があります。同じように、彼らの生き様は私たちの信仰生活の参考になるものです。フェイスブックの某グループにも投稿中です。

(ボネ神父伝23)◆1-3、お葬式

江藤きみえ『島々の宣教師 ボネ神父』、23


第2部 回想への巡礼 療友のつづった思い出の記をたずねて


◆1-3、お葬式


 いつかボネ神父さまの跡をたどるため、黒崎の教会をたずねたときのことでした。あるかたからこんな話を聞きました。


「まあ、ボネ神父さまですって!わたしも、そのかたをよく存じあげていますのよ」。


「では、あなたも新田原にいらっしゃったかたのおひとりですね?」


 わたしの好奇心にみちた不遠慮な質問にたいして、その人はやさしくほほえみながら、思いがけない、まったく感激的な事実を話してくれました。


「いいえ、そうではございませんが、神父さまの生涯を書いたあの思い出の記をよんで心を打たれたのです。わたしは、このご本を、信仰など見向きもしなかった友人にみせてやりました。ところが、その人は、すっかり感激して、それか教理の勉強をはじめ、熱心な信都なったのです。こんなことでボネ神父さまのお名前をきくと、何かしら、とてもなつかしく感ずるのです」。


 このように、思い出の記は、その飾り気のない物語のなかに、フィクションなどに見られない生命のいぶきをもっていて、よむ人とのあいだに、人格的な交わりさえ成りたたせるのです。しかし、その多くは、かつて新田原に保養にきて、朝夕ボネ神父さまの訪問をうけた人たちによってしるされ、これに神父さまのほかの霊的子どもたちのなつかしい思い出も、加えられているのです。


 では、これから、まったく未知の旅路へ出発する時のように、宗教や司祭にたいするあらゆる既成概念を排除しつつ、回想への巡礼によって、思い出の記と神父さまをご存じの人々のうちに、さらにかれの足跡をたずねてみることにしましょう。


(写真は黒崎教会)

(ボネ神父伝22) ◆1-2、お葬式

江藤きみえ『島々の宣教師 ボネ神父』、22


第2部 回想への巡礼 療友のつづった思い出の記をたずねて


◆1-2、お葬式


 まもなく、聖堂のなかに、しずしずと運ばれてきた棺は、まるで父のまえにすわらされたむすこのように、主の祭壇のまえにすえられました。気がつくと、棺の足もとに、黒いリボンで飾られた額のなかから、元気そうな神父さまの顔が、慈愛にあふれるまなざしで、わたしたちをじっとみつめておられました。それは清く澄んで、若さと生命にみちたお目でしたが、おっむは、すっかり禿げあがり、あごには、ふさふさとした真白なひげが、やさしいお顔に慈父の威厳をそえ、額に深くきざまれたしわは、はげしい使徒職のため、いかにかれがあの美しい丈夫なからだを使いふるしたかを物語っているように思われました。


 内陣には、かれの労をねぎらい、その光栄に一段とかがやきを添えるかのように、大ぜいの司祭にまじって、数人の司教さまが、宝石の指輪をはめ、緋色の帯をたれ、頭に黄金の帽子をいただいた美しい正装姿で、人目をひきっけていました。


 そのほか、各地から集まった修道士、修道女など、聖堂は、これらの聖職者だけでも、すでに身動きができないほどで、明け放たれたとびらの外には、信徒のむればかりか、未信者までも、ミサ聖祭の聖歌が届きかねるほど遠くまであふれていました。


 しかし、これほどのおびただしい群衆にもかかわらず、水をうったような静けさのなかで、いとも荘厳な死者ミサがはじめられました。司式は、神父さまとは兄弟も同然だったボア神父さまで、聖歌隊のうたうレクイエムの荘重な聖歌が、ボネ神父さまの無邪気な童心をゆすぶりながら、天国での平和な眠りをさそう子守歌のようにきこえます。そして、そこに参列した人々の心に、悲しみではなく、深い平安と、よろこびを与え、その偉大な最後の勝利は、熱烈なあこがれを呼びさましつつ、群衆の心をむち打つかのようにみえました。


 さて、小さな越境者のところで、ちょっともらしたことがありましたが、お葬式のあとで、大ぜいの青年たちが集まって、なつかしい慈父の思い出をっづろうと約束しました。そして、まもなく神父さまのこ生涯の後半をいうどる使徒職が、消えない形見としてこの世に残ることになったのです。


 神の似姿、神の現存を映す生きた鏡だった神父さまの存在は、ほとんどこのなかに描き出されています。なぜなら、この手記は、神父さまにふれ、その影響をうけ、かれの愛と、信仰にはぐくまれた人々によって書かれていて、これらの青年たちは、神父さまの魂に答える山びこのように、愛師の心をよく理解していたからです。

(ボネ神父伝21)第2部 回想への巡礼 療友のつづった思い出の記をたずねて

江藤きみえ『島々の宣教師 ボネ神父』、21


第2部 回想への巡礼 療友のつづった思い出の記をたずねて


◆1、お葬式


 1959年3月19日 - その日は、朝からどしゃぶりの雨がつづいていました。そして、ようやく新芽をふきだしたばかりのいちょうの上に、修道院の青い屋根のうえにまた、葬式に参加した人々のどうまみれの足のうえに、情ようしゃもなく、半ばやけ気味とさえ思えるほど激しく、その細い銀の足跡をたたきつけていました。


 お葬式は10時からという知らせであったが、すでに早朝からおびただしい人々がおしよせ、幼稚園の運動場も修院の庭も、集まった人々のむれでひしめき合っていました。


 また、薄みどりの燃えるような雑草につつまれて幾台かの大型バスも道路にならび、黒ピカの新型自家用車も雨のなかに数台のり捨てられていました。


 通りかかった大型トラックが、この混雑ぶりにへいこうして、"いったい、これはどうしたことだろう!とそこに立っていた百姓のおかみさんに尋ねました。


「はあ!ボネ神父さんちゅうて、凡らい神父さんがきのうなくなられたでな、きょうは、その葬式ですたい。太刀洗や、飯塚、長崎、それにわざわざ奄美大島あたりからまでござらっしゃってのう!神父さんの前おらっしゃった数会の信者さんげな、ほんにえらい人出ですたい、こげん葬式みたことなかばい」。


 そうです、この日こそ56年まえ、大島で大活躍をしたかつての青年司祭ボネ神父さまのお葬式だったのです。1905年から1923年まで約18年間もの青春をささげて奉仕したかの地に涙とともに別れを告げねばならなかったかれは、あれからどのような生涯をたどったのでしょうか? 今しばらくこの問題はそのままにしておいて、まずこのにぎやかなお葬式の行列について行ってみましょう。


 雨は、さっきから少しも衰えてはいませんが、わたしたちのたたずむ間も、参加者はひっきりなしに集まってきます。まもなくご遺骸は、安置されてあった幼稚園から、長い行列をつくって、聖堂へ運ばれてゆきました。横を歩いていたひとりの信者が、わたしのそでをひいてささやきます。


「ちょっとごらんなさい、棺の前方をになってゆく右がわの人ね、大島で神父さまの伝道士をしていたかたですって・・・」。


 まさしくそれは、かつてのK青年です。今では孫までできている、れっきとしたおじいさんですが、神父さま危篤の電報で、とるものもとりあえず、かけつけて来たということです。

(ボネ神父伝20)司祭の苦労

江藤きみえ『島々の宣教師 ボネ神父』、20


◆4-11、最初の布教地・奄美大島


 こんなことばかり述べていますと、神父さまの布教歴史は、まるでかれの痛快な武勇伝をきくような感じをうけますが、その日常の生活には、人々の想像もおよぼぬ苦みがかくれていました。


 それは、天にましますおん父にのみささげられた秘密で、だれも知ることのできないものです。


 しかしひじょうに密度の高いフランスの文明と、伝道にゆけば木の上から司祭めがけておちてくるハブ、信者の家にはいろうとすれば、台風をさける低い草屋根からもぶらさがってくるハブ、そしてあるときは、掃除のためかかえあげた戸棚の下にまでとぐろを巻いているハズあの激しい猛毒をもった魔物の住む、そして不潔と無理解と貧と熱病に苦しむ当時のこんな大島を、考えあわせてみればいいのです。神父さまのかくれた苦労の小さな一端がうかがわれるではありませんか。


 しかし、かれの親しかった伝道士がいったように、神父さまは、あらゆる困難によって誘われる弱さや女々しい感傷を、愛の強いひと打ちで、いさぎよく投げ捨ててしまったのです。


「海ゆかば、みつくかばね、山ゆかば、草むすかはね大君の辺にこそ死なめ、かえりみはせじ」。


 あの美しい大和歌を、もし神父さまが知っていたとしたら、今度は天のみあるじにむかって、どれほど熱烈に歌ったことでしょう!


 きょうもカンカン日に照りっけられながら、山をこえ谷をわたって歩いてゆきます。信者だろうと、未信者だろうとおかまいなしに、真理に耳をかす神の子を集めにゆきました。


 もし山の上で日が暮れて、泊まる家がなかったら、なあに、かまうもんかといって、石のまくらで休みました。


 それは、キリストさまの伝道に似ていると思ったので、神父さまは、急にうれしくなりました。


 昔、アッシジの心やさしい聖人がいったように、兄弟大蛇も、姉妹サソリも、仲よくなって、土のべッドで休みました。流れ星が一つ、すっと青白い尾をひいて、その上を飛んで消えました。

(ボネ神父伝19)神藪を焼き払う

江藤きみえ『島々の宣教師 ボネ神父』、19


◆4-10、最初の布教地・奄美大島


「みなさん、死んでゆく人をごらんなさい。死人は未来をとりあげられてしまいます。そのときかぎり、進歩することができなくなるのです。あなたたちも、古い習慣や迷信のなかにとじこもって、新しい生活をしないなら、やはり死んだ人と同じです。なるほど、しゃべったり、動いたり、食べたりしていますが、それは人間として生きているのではありません。動物もそんなふうに生きてゆけます。だからみなさん、まちがいだらけの古い習慣や迷信を、くさった魚のように捨ててください。あなたたちは、いつも暗いあらし雲の向こうに晴空を待っているではありませんか。楽な暮しのできる文明も、暗い迷信やまちがった習慣の向こうにあるのです。迷信ははずかしい無知です。迷信を捨てましょう!迷信がこの大島の文化を妨げているのです。みなさん、迷信をほろぼそうではありませんか!迷信こそ、みなさんの第一の敵です」。


 村のまつりで人々のたくさん集まる広場に立つと、ボネ神父さまは、あの偉大なお腹から出てくる大音声でこんな辻説教をはじめました。年に一度の晴着をきた娘たちも青年も、いpっぱいきげんのおじさん仲間も、また老人や子どもたちまでが、むずかしい理論よりも、そのわれがねのような大音声につられて集まってきました。


「神父さん、あんたがた白人がわれわれを野蛮人だと思っていることはよくわかっていますがね、そのわれわれの迷信とは、いったい何のこったね?」一ひとりのもの好きな男が、からかい半分に尋ねました。


「あなたたちの考えていることは、ほとんど迷信です。しかし、そのなかでいちばんひどいのは神でないものを神にしていることです。たとえば、おろかにもあなたたちは、木と雑草と土の塊にすぎないやぶを、神だといっておそれています。野獣たちでさえ、平気で住むことのできるあそこへ、あなたたちは不便な回り道をしてまで、近寄ることができないではありませんか。あなたたちは、野獣より劣ったものですか。小鳥たちのほうが、ずっと賢明です。かれらは、そんなばからしい迷信をっくりませんから。どこででも自由に楽しくのびのびと暮しています」。


 こんな調子で島の人々をとがめていた神父さまは、じっは、世界のすみからすみまで巣くっているもっと大きな迷信のことを考えていました。すなわちそれは、人々の目から神をおおう安っぽい人造品の思想や主義で、兄弟の血を流すまで人々を相反目させずにはおかない唯物論、ファッシズム帝国主義、人種差別のようなものからごく個人的な拝金主義、快楽主義、名誉至上主義にいたるものでした。


「なに!あの神藪が、ただの藪だと!とんでもない。そんなことぬかすと、今に神罰てきめんだぞ!」


 年とった神宮がカンカンにおこって反ばくしましたが、神父さまは、おどろきおそれる群衆をしり目に、伝道士をっれてかの藪へゆくと、一挙にこれを焼きはらってしまいました。
それにしても、人々の心配していたたたりは、いっこうにあらわれず、神父さまは、政府から迷信打破のほうびとして、この藪をただでもらいうけ、一年じゅう不足しないだけの薪をもうけました。