キリスト者の模範 公教会の教父たち

公教会(カトリック教会)の諸聖人、教父、神父らの伝記を掲載していきたいと思います。彼らは、クリスチャンの模範です。イエス様の生き方を見習うことはとても価値があります。使徒ヨハネやパウロの生き方に倣うことも価値があります。同じように、彼らの生き様は私たちの信仰生活の参考になるものです。フェイスブックの某グループにも投稿中です。

(ボネ神父伝7)◆3、変なやど屋

江藤きみえ『島々の宣教師 ボネ神父』、7


第1部 選ばれた一粒のたね ある宣教師の生いたちと布教


◆3、変なやど屋


「ミヤザキ、ミヤザキ」。


 疲れきった夜行列車がプラットホームのまばゆい光のなかにすべりこんでくると、煤煙で黒くなったその長蛇の口からおびただしい旅行者を吐き出しました。


 このとき、詰めえり姿の青年がふたり、あわただしくホームにかけこんできて、何かうなずき合うと、ひとりは1等車のほうへ、もうひとりは2等車のほうへ走ってゆきました。


 どの昇降口も、長い旅から解放された人たちのよろこびで活気づいています。青年たちは、その近くに立って人波にもまれながら、出てくる旅行者の顔を、ひとりひとりくいいるように見ていました。しかし、しばらくすると、車のなかには、ぐずぐずしている人たちが数人残っているばかりになり、ついにかれらの失望は決定的なものとなったようです。そのときすでに駅の時計は、9時をさしていました。ひとりは、もう一度ポケットから手紙を引きだしてみました。


「ほらここにJe suis sur que j'arrivrai a huit heure et demie(たしかに8時半に着く)と書いてあるだろう・・・変だなあ!」


「うん、それはたしかに8時半に着くという意味だよ。とすると神父さまは、車をまちがえられたんじゃないかな」。


 もうひとりのほうも、のぞきこみながら思案にあまったようにあいづちをうっています。


 どこかで困っている人のことを考えながら、かれらはどうしようかというように顔を見あわせていますが、この青年たちは、神学生で、鹿児島の教会から宮崎の教会へ転任してくるという、ひとりの外人宣教師をむかえにきていたのです。


 しかし、その少しまえに、かれらのまったく思いもよらなかった3等車のなかから、背たけのずばぬけて高いフランス人が、のこのこと不器用そうに頭を曲げながら出てきました。これこそ、神学生たちがあれほど熱心にさがしていた宣教師だったのです。


 そのうえ、血色のいい広い額や、何かしらいたずらっぽい感じのする無邪気な目をみていると、だれかの面影が浮んできます・・・まぎれもなくそれは、かつてのわんぱくな越境者、そして、雌馬の乳をのんだマキシム坊やでした。

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