9-7 戦火に追われて

『文明のあけぼの 世界の歴史1』社会思想社、1974年
9 殷王朝の都を求めて――殷墟の発掘史――
7 戦火に追われて
すでに日本は一九三一年の九月、東北地方(満州)に兵を進めて、これを占領し、あくる三二年三月には「満州国」を建設していた。
その元首にむかえられたのが、宣統廃帝溥儀(ふぎ)である。
はじめは執政という名称であったが、三四年三月の帝制施行とともに皇帝になった。
羅振玉もまた「満州国」にうつり、参議から監察院長を歴任している。
殷墟の発掘がさかんにおこなわれているとき、殷墟の発見者は、その輝かしい業績をのこしたまま、学界を去り、さらに中国をも去っていたのであった。
この間にも、発掘と並行して、出土した大量の甲骨の整理と、拓本とりなどの作業は順調にすすめられていた。
まず、一九三四年の発掘(第九回)までに出土した甲骨が整理され、編集して、出版という段取りに到達した。
そうして原稿となったのが『殷墟文字 甲編』であり、ここには三百余枚の図版が入れられた。
三七年の春には校正刷り(ゲラ)も出た。
しかるに、その三七年の七月、日中戦争がはじまったのである。
戦火はたちまちのうちに拡大し、殷墟のある河南の平原にもおよんだ。
もはや発掘どころではない。遺物の類も、日本軍の進撃をさけて、安全なところに移さねばならなくなった。
八月には、上海(シャンハイ)も戦場と化した。
そして『殷墟文字』を印刷する商務印書館の工場は、上海にあったのである。
出版は不可能になった。南京の爆撃もはじまった。
発掘の主体となってきた歴史言語研究所は、資料をまもるために、南京から長沙にうつった。
甲骨の類も、また長沙に送られた。
そして国民政府も、日本軍が南京へ迫るにともなって、まず武漢へ、ついで重慶へと、うつっていったのである。
しかも長沙とて、安全ではない。研究所と甲骨類は、さらに広西(カンシー)省の桂林へ、そして一九三八年の春には雲南省の昆明へと移動した。
商務印書館は香港(ホンコン)にうつった。そこでもういちど写真をとりなおし、印刷にかかった。
一九四〇年の秋、ようやく『殷墟文字』はできあがった。
この図録のために、中心となって編集にあたったのは、董作賓(とうさくひん)である。
しかし董は昆明にいる。せっかく書物ができあがっても、実物を手にすることはできなかった。
おなじ年、すでに官途をしりぞいて旅順に隠棲していた羅振玉(らしんぎょく)は、故国の不幸をよそに死去した。
七十五歳であった。
その翌年が一九四一年である。十二月八日、日本は米英に宣戦を布告し、西太平洋の全域において作戦を展開した。
イギリス領の香港も、日本軍の攻撃をうけた。商務印書館も大きな被害をうけ、完成していた『殷墟文字』も戦火のなかに消えうせた。
しかも不幸な戦争のさなか、学者たちは黙々として、いつ日の目をみるかわからない甲骨の整理に、いそしんでいたのである。
十五回の発掘で、甲骨は二万五千片ちかくに達していた。
しかし何回もの移動で、こわれやすい甲骨は、砕けてパラバラになってしまったものが、すくなくない。
せっかく復原して、つなぎあわせたものも、こなごなになってしまった。
おまけに湿気のために、かびてボロボロになる始末である。
そうして一九四五年をむかえた。日本は降伏し、平和は回復された。
研究所も、甲骨も、あくる四六年の秋には、南京に復帰した。ここで三回目の印刷がはじまるのである。
受難のすえ学者たちの苦心は一九四八年、ようやく『小屯・殷墟文字 甲編』として、刊行されたのであった。
発掘をはじめて以来、十九年の歳月がすぎていた。
しかも不幸が終わったわけではない。日本への抗戦がおわると、つぎにむかえたのは国共の内戦であった。
国民政府は失政がつづき、共産党はいよいよさかんとなる。
四九年十月には、中華人民共和国が成立し、国民政府は大陸を追われて、台湾に落ちのびた。
政府の移動とともに、甲骨はまた動かされる。研究所も、李済や董作賓らの学者も、台湾にうつった。
こうして、さきの甲編につづく『小屯・殷墟文字 乙編』上中下三冊は、一九五三年までのあいだに、台湾において刊行されたのである。
しかし甲骨文字以外の資料、とくに陵墓や住居遺跡についての詳細な報告は、一部を除き、まだ公刊にいたっていない。
ところで安陽における殷墟は、いったい殷の歴史のなかで、いつごろの都の跡なのであろうか。
伝説によれば、殷の王朝は、初代の湯(とう)王から盤庚(ばんこう)までの十八代に、五回の遷都をおこなったという。
そして盤庚から最後の紂(ちゅう)王までの十二代は、大邑商(安陽の殷墟)に都していたという。
その殷墟が発掘され、そこが盤庚(ばんこう)後の都のあとであることが明らかとなった。
つまり殷墟は、殷代の後期に属する。甲骨文字も、この後期になって、はじめてあらわれるのであった。
それでは、安陽より以前の殷の都は、どのあたりにあったものなのであろうか。
その文化はどのようなものであったのか。
この問題をきわめるには、さらに多くの土地をしらべねばならない。