10 幻の帝国の再現――ヒッタイト帝国――

『文明のあけぼの 世界の歴史1』社会思想社、1974年
10 幻の帝国の再現――ヒッタイト帝国――
1 アマルナ文書
それは、ナイル川の東岸のテル・エル・アマルナ部落の近くのことであった。
外国人たちがやってきて、地表をしきりにさがしまわったり、近くになにか遺跡のようなものはないかなどと、百姓女にたずねた。
彼女は「知らない」と答えたが、外国人たちはなおもうるさく質問をくりかえし、そのうえ畑までふみあらすので、彼女はすっかり頭にきてしまった。
怒った彼女は、そばに落ちていた粘土のかけらをひろって、外国人に投げつけた。
ところが、この粘土のかけらには古い文字が刻まれていた。これがきっかけになって、たくさんの粘土板がみつかったという。一八八七年のことだった。
みつかった粘土板はアメン・ホテプ(アメノフィス)四世時代(紀元前一三七〇~一三五〇ごろ)の、王家の記録文書だった。文書の収蔵所が発掘され、粘土板は「アマルナ文書」とよばれるようになった。
エル・アマルナはアメン・ホテプ王が新しくつくった都「アケト・アトン」の跡だったのである。
アメン・ホテプ王は、のちに「異端の王」とよばれたように、大宗教改革者だった。
当時のエジプトでは八百万の神々が尊崇され、ことにアメンの神が信仰されていた。
アメン・ホテプという名もアメン神にちなんだものだった。
したがって、アメンに仕える神官たちの勢力は強かった。
これらの神官たちの横暴から逃れるためもあったろうが、王はアメン信仰をすてて、太陽神アトン(アテンともいう)を尊崇した。
王は、「アクン・アトン(あるいはイクナトン)」と改名した。「アトンの光輝」という意味だった。
また首都も、アメン崇拝の中心地であるテーベから、のちのエル・アマルナの近くに移し、ここを「アケト・アトン(アトンの地平線)」と命名したのだった。そして王はみずから神官長となった。
王のアトン信仰を唯一神信仰と考え、のちのモーゼのエジプト脱出とむすびつけ、ユダヤ人に影響されて、王がそのような信仰をもつようになったのだと考える学者もある。
しかしアトン信仰は、アトンを八百万の神々の主と考えるもので、他の神々をまったく否定するヤハウェ信仰のようなものではなかった。
百姓女の怒りが、アマルナ文書発見のきっかけになったという話は、本当だとすればたいへんおもしろい。
しかしよく知られた話だが、本当にあったことかどうかは、実際はわからない。
とにかく、この年の末ごろに、カイロの古美術商人が文字を書いた粘土板を手にいれ、高価に売ったことはたしかである。
そのうわさが百姓たちのあいだに広まったらしく、彼らは次々に粘土板を古美術商人のところにもちこんだ。
翌年には二百個ちかくも、カイロで取引きされたという。
もちろん古い遺物の売買は当時でもきびしく取り締まられていた。
しかし古美術商人のひとりが、粘土板をカイロの博物館員にみせて鑑定してもらった。
ところが、博物館員はそれを偽物だといい、博物館では購入できないとことわった。
そのため粘土板はおおっぴらに外国人に売りこまれた。イギリス人なども買ったが、オーストリア人の蒐集家のテオドール・グラーフがその大部分の百六十枚を買いこんだ。
そしてそれはのちにベルリンの博物館に収蔵された。
イギリスでは、有名な考古学者のウィリアム・フリンダース・ピートリを隊長にして、アマルナ発掘調査をすることになった。
発掘は一八九一年の末ごろから、翌年の三月いっぱいおこなわれた。
そののち第一次大戦まではドイツが、それからのちはイギリスが発掘調査をつづけた。
その結果、従来のエジプト彫刻とはちがって写実的な、美しい王妃ネフェルトイティやアクン・アトン王、王子たちの頭像などが発見された。
そしてその特異な様式から「アマルナ美術」とそれらは呼ばれるようになった。
また重要な粘土板多数が出土した。それらは王家の記録文書類で、外交文書類もたくさんあった。
粘土板に刻まれていた楔形文字は、当時解読されていたので、学者たちはすぐそれらを読むことができた。
文書の解読がすすむと、それまでよく知られていなかった当時のエジプトを中心とするオリエント諸国の外交関係がしだいに明らかになり、エジプト史の研究家をはじめ、オリエント学者たちは狂喜した。
先述したようにアクン・アトン王はアメン信仰をすてて、アトンを信仰するようになったので、アメンの神官たちは当然はげしく抵抗した。
そのため国内には種々の混乱が生じ、王はそのためにもっぱら心をつかわねばならなかった。
当時エジプトの勢力のおよんでいたシリアやカナン地方では小さな土着の王たちが、このような情勢をすばやくみてとり、次々に反乱をおこし、独立をはかった。
これらの地に駐屯していた総督などは、王に救援をこう手紙をたびたびだしている。
これらの手紙も発見され、一日一日とエジプトに不利になっていく、当時の国際情勢がよくわかる。
たとえば、イェルサレムの総督アブディ・ヘバは、
「わが主である王の足下に、七たびまた七たびひれふして」弓兵をおくってくれるようにと嘆願の手紙をおくり、
「弓兵が今年中にくればわが主である王の領土としてこの地はのこりますが、もし弓兵たちがこないならば、わが主である王の領土は失われます」と書き、
「なぜあなたは反乱者を愛し、総督を憎まれるのですか」とうらんでいる。
このアマルナ文書のなかに、ヒッタイト人の王シュッピルリウマシュが、アクン・アトン王にあてた手紙がはいっていた。
それはアクン・アトンが王位についたことを祝う手紙だった。
この手紙がみつかったために、いままで幻のように考えられていたヒッタイト帝国の存在がはっきりしてきた。
幻といったが、ヒッタイト人は旧約聖書のなかには「ヘテ人(びと)」(ヘブライ語聖書では「ヒッティム」)として、なんどもでてくる。
しかしそれは多く、あまり知られていない弱小の種族を列挙したところだった。
(「ヨシュア記」三章十節、「創世記」十五章十九―二十一節、「民数記略」十三章二十九節など。この最後の場合には「山地に住む人」としてしるされている)。
もっとも、アブラハムが彼らに「墓地がほしい」と乞うている記事(「創世記」二十三章三節)もあり、かつて、彼らがカナンの地に居住していたこともうかがえたのであった。
また「列王紀略下」七章六節には、シリア王が、イスラエルの王はヘテ人の王やエジプトの王に援助をたのんで攻めてくるのではないかと恐れる記事があり、ヘテ人の王が、エジプト王とならぶ強い王であったことを思わせている。
とにかく、このように「ヘテ人」は聖書にはたびたびでてくるが、彼らの存在は長く忘れられていた。
そしてアーチボルド・ヘンリー・セイスが、奇妙な記号のようなものが書かれている「ハマト石」について、それは文字であると主張し、ついで「小アジアにおけるヒッタイト人」という論文を一八七九年に発表し、翌年にはヒッタイト人について講演をしている。
これらの論文や講演はひじょうな評判になったが、その議論はあやしいとされ、セイスは「ヒッタイト人の発明者」とさえよばれた。
しかし「アマルナ文書」がみつかってみると、ヒッタイト人はけっしてセイスの発明したものではなく、たしかにかつて実在した人々であることが明らかになった。
しかもアクン・アトン王の時代(紀元前一三七五~一三五八ごろ)にシュッピルリウマシュ一世という王がいたことが明らかになり、年代も王名もたしかになったのである。