カトリック情報(緊急避難ブログ)

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快楽の是非  聖トマス・アクィナス

カトリック
 ついで過度の快楽は徳の道を踏み外させる。確かに快楽にもまして、徳の道を逸脱させる常軌を失った増長に引き入れるものはないのである。というのも一つには、快楽の本質は貪欲であるから、ほんの少しの快楽を得るだけでも淫らな快楽の誘惑に陥ることになる。あたかもそれは乾燥した木材が微量の火で燃え上がるようなものである。もう一つには、快楽は欲望に満足す.るものではなく、むしろいったんそれを味わってしまえばますます渇きを覚えるものだからである..それゆえ人が過度の快楽を慎むことは徳の務めに属する。実際、過度の快楽が避けられれば、容易に徳の道に至ることができるのである。

 したがって、過度な快楽に身を委ねる者は精神が軟弱になる。そしてなにか困難な事態に対処したり、苦しい仕事に耐えたり、危険を冒さねばならない場合に、かれらは臆病になる。それゆえ戦争のさいに快楽は最も害となる。ウェゲティウスが『軍事論』のなかで「わが人生に快楽少なし、と悟っている者ほど死を恐れない」と述べているのはこのためである。

 最後に快楽に溺れる者たちはたいてい怠惰である。そして必要な仕事やなすべき勤めを怠り、ひたすら快楽にのみ心を傾けて、せっかく他の人びとによって集められていた物を散乱させてしまう。そこで困窮の淵に沈んでも慣れ親しんだ快楽を思いきることはできず、自己の欲望を満足させるために窃盗や強奪までも働くことになるのである。

 それゆえ場所柄からか、もしくはその他のどのような理由のためであろうとも、快楽があまりにも過剰なことは都市にとって有害この上もないのである。

 ただし、人間の共同生活において精神を刷新させるためのいわば薬味のようなものとして、適当な量の快楽を得ることは必要である。セネカが『心の平安について セレヌスに与う』のなかで、「心に休養を与うべし」と語っているように、ほどよく快楽を用いることは精神にとって良いことなので、休息をより良くよりうまくとる人は元気を回復する。しかし煮物をするときに良い味になるように用いる塩が多すぎると、かえって味は損なわれる。さらにはまた、もし目的に充てられゐものが目的そのものとして求められるようなことになれば、自然の秩序は崩壊し消滅することになる。鍛冶屋が工具を、車大工が鋸を、医者が薬を求めるように、それらのものはかれらのなすべき目的に向かって秩序づけられているのである。

 さて王がかれの統治する都市において心がけねばならないことは、徳にしたがって生活することである。その他のものはしかし、それが目的に充てられたものとして、そしてまた目的の追求に必要なものである限りにおいて、用いられるべきである。しかるに、このことは過度の快楽に身を持ち崩す人には当てはまらない。というのは、このような快楽はすでに述べた目的に充てられないどころか、かえってむしろそれ自体が目的として追求されているように思われるからである。そして、聖書に証されているように、目的に適うこととして、「だからこそ目の前にある良いものを楽しまん」〔「知恵の書」2:6〕と記されている言葉や、あるいはひき続き記されている、「青春の情熱を燃やしこの世のものをむさぼろう」(同)とかの言葉を見当違いにも吐く不信心な者どもはこの方法を利用しようとしているだけのように思われる。青春期にままあり、そして当然のことに聖書でも非難されているように、肉体的な快楽の不道徳な使用がまさにここにあるのである。

聖トマス・アクィナス 『君主の統治について』
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