後藤明(東大教授)「イスラム教の聖戦(ジハード)―ムハンマドはいかにしてアラビアを征服したか」『世界「戦史」総覧』新人物往来社 6

後藤明(東大教授)「イスラム教の聖戦(ジハード)―ムハンマドはいかにしてアラビアを征服したか」『世界「戦史」総覧』新人物往来社
六、ペルシア帝国相手の聖戦
今日、サッダム・フセイン大統領を戴くイラクという国は、人口二〇〇〇万人程度の小国に過ぎない。しかし、紀元前数千年の昔からメソポタニア文明を育んで首たこの地は、七世紀という時代にあっては、世界的にみても人口禍密な地域の一つで、パンと乳の文化圏の一つの中核であった。ペルシア帝国は、ここイラクを拠点に、イラン高原から中央アジアを支配する巨大な帝国であった。
しかし、六三〇年代の初頭は、ローマ帝国に敗れたペルシア帝国は皇帝不在の状態がつづき、帝国の態をなしていなかった。隙をみれば略奪にいくのが砂漠のアラブ人である。豊穣なイラクに備えなしとなれば、周辺のアラブ人は早速そこを目指した。
アラビアの「大嘘付き」の勢力を平定しつつあったメディアのカリフ、アブー・バクルは、ムサイリマを打倒したハーリドを、この略奪隊をイスラム教の旗のもとに纏めるべくイラクに派遣した。彼はいくつかの町を降伏させた後、シリア戦線に去った。残されたアラブ・イスラム軍は統制を失い、進軍はままならなかった。ペルシア帝国は、中央アジアでトルコ系の人々に備えていた軍がイラクに転回して、王家の若者の一人を皇帝に擁立して体制を整えていった。そしてその軍が、アラブ・イスラム軍を何度か破り、イラク防衛を果たすかにみえた。
アブー・バクルの後カリフとなったウマルは、アラブ・イスラム軍の将を任命して態勢を立て直させた。そのアラブ軍とペルシア軍が、カーディスィーヤという場所で激突した。ペルシア軍は重襲備の騎兵部隊や象部隊を備えていた。それに対してアラブ軍には勇敢さだけがあった。三日にわたる激闘は、結果としてアラブ・イスラム軍の勝利に終わった。六三六年か七年のことである。正規軍が敗られれば、ペルシア皇帝に忠誠心などもっていないイラクの民は、それまで皇帝に支払っていた税をアラブ軍に支払うことを条件に安全保障を得ていくだけで、抗などはしなかった。皇帝は、その華麗な首都クテシフォンを見捨てて、ペルシア高原に去った。アラブ軍の戦士は、そこで信じられないほどの戦利品を得て満足した。
ペルシア皇帝は、ペルシア高原で軍を立て直した。数年後の六四二年・皇帝はイラクヘと進軍したが、イラク平原に降る途中のニハーワンドでアラブ・イスラム軍との決戦を強いられた。イスラム教の史書は、いつでも合戦の全貌を伝えようとはしない。個々の戦士の武勇伝の総和は、アラブ軍の快勝を伝えている。敗軍の将ペルシア皇帝は敗走し、数年後に部下に殺されて帝国は滅んでしまった。