暴君の末路 聖トマス・アクィナス
かてて加えて僭主は君主として当然授けられるべき至高の浄福を剥奪され、もっと深刻なことに、刑罰として最大限の苦痛を身に招くのである。というのも一人の人間から略奪をし、その人を奴隷の境遇に陥れ、あるいは殺害する者が最大の刑罰に、つまり人間の裁きにおいては死、神の裁きにおいては永遠.の呪誼、という刑罰に価するとすれば、すべての人から掠め取り、すべての人の自由を蹂躙し、自分の意のなすままに誰彼となく殺害する僭主に、いったいどのような刑罰が考えられるというだろうか。
のみならずこのような者は容易に悔いることはない。驕慢の風に巻き上げられ、罪の報いとして神に見放され、人びとの追従によって無感覚になっているので、かれらがきちんと償いを果たすことはほとんどないのである。いったい何時、かれらは正義の義務を逸脱して横領したすべての物を返還するのだろうか。かれらがそれらの物を返還するように義務づけられていることは何人も疑いえないところである。いったい何時、かれらは自分たちが抑圧し、いろいろな手を使って不当に傷つけた人びとに償いをするのだろうか。
その無悔俊ぶりに加えて、かれらは自分が罰せられずに、そしてなんの抵抗も受けることなく、しでかしたすべてのことを正当なことだと思っているのである。それゆえかれらは自分の悪業を悔いて償おうとはしないだけでなく、自分の慣習を権威のごとく利用しながら、後継者たちに罪悪を犯しても恥じない不敵さを伝えようとするのである。かくてかれらは自分自身の所業に対してだけでなく、自分が罪の機会を与えてしまった人びとの罪業に対しても神の御許において問責されねばならない。
かれらの罪はさらにその任じている職務の尊厳からいってもいっそう重大である。あたかも地上の王が自分に仕える者の不忠に気づいた場合、よりいっそう重い罰をその者らに加えるのと同じように、神はご自分の統治の実行者、奉仕者となし給うた者が不正を働き、神の裁きを悪用して恥じない場合、その者らに対してより重い罰を課すことであろう。それゆえ「知恵の書」(6:4-5)では、不正な王に対してこういわれているのである。「あなたたちは国に仕える身でいながら、正しい裁きをせず、掟を守らず、神の御旨にそって歩まなかった.、神は恐るべき姿でただちにあなたたちに臨まれる。上に立つ者は厳しく裁かれるのだ」。また、「イザヤ書」(14:15-16)はネブカドネツァルに向かっていう。「お前は陰府に落とされた/墓穴の底に。お前を見る者は」あたかも罪に深く沈んだ者のように、「まじまじと見つめる」。
かくて王が現世の利益をふんだんに得て、神から素晴らしき位の浄福を用意される一方、僭主はかれらの渇望する現世的満足さえ得ようとして叶わず、多くの危険を冒し、さらに悪いことには永遠の幸福を奪われ、最も重い罰に処せられるのである。そうであれば、統治の任に当たる者はよくよく心して自分が臣下に対して、僭主ではなく、王であることを示さねばならない。
王とは何であるか、民衆にとって王を戴く利益は何か、さらにはまた民衆に対して自分が僭主ではなく、王であることを示すことが王にとっていかに有益かなどに関して、われわれとしては以上で意を尽くしたと思う。
聖トマス・アクィナス 『君主の統治について』
のみならずこのような者は容易に悔いることはない。驕慢の風に巻き上げられ、罪の報いとして神に見放され、人びとの追従によって無感覚になっているので、かれらがきちんと償いを果たすことはほとんどないのである。いったい何時、かれらは正義の義務を逸脱して横領したすべての物を返還するのだろうか。かれらがそれらの物を返還するように義務づけられていることは何人も疑いえないところである。いったい何時、かれらは自分たちが抑圧し、いろいろな手を使って不当に傷つけた人びとに償いをするのだろうか。
その無悔俊ぶりに加えて、かれらは自分が罰せられずに、そしてなんの抵抗も受けることなく、しでかしたすべてのことを正当なことだと思っているのである。それゆえかれらは自分の悪業を悔いて償おうとはしないだけでなく、自分の慣習を権威のごとく利用しながら、後継者たちに罪悪を犯しても恥じない不敵さを伝えようとするのである。かくてかれらは自分自身の所業に対してだけでなく、自分が罪の機会を与えてしまった人びとの罪業に対しても神の御許において問責されねばならない。
かれらの罪はさらにその任じている職務の尊厳からいってもいっそう重大である。あたかも地上の王が自分に仕える者の不忠に気づいた場合、よりいっそう重い罰をその者らに加えるのと同じように、神はご自分の統治の実行者、奉仕者となし給うた者が不正を働き、神の裁きを悪用して恥じない場合、その者らに対してより重い罰を課すことであろう。それゆえ「知恵の書」(6:4-5)では、不正な王に対してこういわれているのである。「あなたたちは国に仕える身でいながら、正しい裁きをせず、掟を守らず、神の御旨にそって歩まなかった.、神は恐るべき姿でただちにあなたたちに臨まれる。上に立つ者は厳しく裁かれるのだ」。また、「イザヤ書」(14:15-16)はネブカドネツァルに向かっていう。「お前は陰府に落とされた/墓穴の底に。お前を見る者は」あたかも罪に深く沈んだ者のように、「まじまじと見つめる」。
かくて王が現世の利益をふんだんに得て、神から素晴らしき位の浄福を用意される一方、僭主はかれらの渇望する現世的満足さえ得ようとして叶わず、多くの危険を冒し、さらに悪いことには永遠の幸福を奪われ、最も重い罰に処せられるのである。そうであれば、統治の任に当たる者はよくよく心して自分が臣下に対して、僭主ではなく、王であることを示さねばならない。
王とは何であるか、民衆にとって王を戴く利益は何か、さらにはまた民衆に対して自分が僭主ではなく、王であることを示すことが王にとっていかに有益かなどに関して、われわれとしては以上で意を尽くしたと思う。
聖トマス・アクィナス 『君主の統治について』