悪魔からの啓示について 十字架の聖ヨハネ
ところが悪魔もまた、ある自然の光によって、霊魂のうちにこれらのヴィジョン(示現)をつくりだすことができ、心理的暗示を借りて、そこにあるものは、そこにあるものとないものを取り出してみせる。これが、あの聖マテオの福音の中で、悪魔がキリストに「この世の国々とその栄華とを示した」(4:8)ということであるが、これについてある学者は、心理的暗示によったと説明している。なぜなら、肉眼をもって、この世のすべての国々とその栄華とを見せるなどということは不可能だからである。しかし、悪魔がつくりだすこれらのヴィジョン(示現)と、神に由来するヴィジョンとの聞には非常な相違がある。というのは、悪魔からのヴィジョンが霊魂の中にひきおこす結果は、よいヴィジョンがつくり出す結果とは異なり、神との交わりに対する精神の乾燥を生みだし、自分を高くかうような気持を与え、そのようなヴィジョンを与えられたことを、何か大したことのように思いこんでしまうもので、神の愛の謙虚なゆかしさを生みだすものではないからである。また、これらのヴィジョンのイメージは、あの優しく明るい霊魂のうちに刻印されたイメージと異なり、永続することなく、まもなく消されてしまう。もちろん、それを重んじている場合には、それに対する自分なりの評価があるため、そのようなヴィジョンを自然に思い起こさせることになるけれども、その思い出はひどく味気ないもので、よいイメージのように、それを思い出すたびに生ずる愛や謙遜というような実りをもたらさない。
しかし、これらのヴィジョン(示現)が、神ならぬ被造物に由来するものであるかぎり、そのようなものは神との間に何のつりあいも結びつきもないため、理性にとって、神との一致のための至近の手がかりになるものではない。したがって、そのための至近の道である信仰を通じて進むためには、前に述べたその他のヴィジョン(示現)の場合と同じように、それらに対してきっぱりと拒否の態度をとらなくてはならない。故に、霊魂のうち.に刻まれて残るこのようなヴィジョン(示現)のイメージを、記憶の中に集めておいたり、宝のように大切にしてみたり、またそうしたものを心の支えにするようなことがあってはならない。そのようなことをすれば、心に残るイメージや、だれかれのことなどにとらわれて邪魔され、何もかも切りすて、神に向かってゆくことができなくなるからである。
そうしたイメージがいつも心に現われるようなことがあっても、そうしたことに関心がなくなれば大して妨げになるということもないであろう。もちろん、こうしたイメージの思い出が、いくぶんなりとも神の愛や観想への励ましとなることは事実であるけれども、そうしたすべてのものから剥ぎ落とされた赤裸々な暗黒の信仰の方が、それがどこから、どういうふうに来るのか分からないままに、はるかに心の励ましとなり、またそれを高めてくれるものである。
このようにして、非常に清らかな神の愛に焦がれて、しかも、それがどこか.ら来るのか、どこに根をおろしているのかも分からないままに前進してゆくことになる。
あの、すべてのものを洗い落とし、何ものも見えなくなる赤貧、すなわち魂の赤貧、それらは皆同じものと言うことができるによって、信仰が魂の中に深く入りこみ、そこに根をおろすようになると、それと同時に神の愛も、ますます注ぎこまれ根をおろすようになる。すなわち、外から、または中からうけとり得るすべてのことに対して自分の目を閉じ、全く無になるように望めば望むほど信仰が深まり、それに従って、信仰とひとつのものとして成長する愛徳も望徳も、より多く注ぎこまれることになる。
しかし、時にこの愛は、当人自身が気づくこともなく、また感ずることもない。というのは、それは心のぬくもりのような感じの中にあ.るのではなく、魂の中にしっかり座を占めているもので、以前よりは一層勇気と大胆さにみち、それが時には、感覚にまで溢れ、優しく快いものに感ぜられることがある。そのようなヴィジョンがつくりだし、また生みだす愛のよろこびに達するためには、そうしたすべてのものから離れ、目を閉じるためにカと、自らをおさえる愛をもっていなくてはならず、またすべてのものを超えた解すべからざる神という、この世では見ることも感ずることもできないものに、その礎をおいていなくてはならない。すなわち、何もかも捨てることによって神に向かってゆかなくてはならないのである。もしそうでなければ、たとい賢く謙遜で強く、悪魔がいつものように、その人を欺くこともまた自負心をもたせるようなこともできないと仮定しても、その人の進歩を阻むことはあり得るのである。というのも、神との一致に必要な霊的赤裸、魂の赤貧、信仰における無に徹しきれないように妨げをおくからである。
十字架の聖ヨハネ 『カルメル山登坂』
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しかし、これらのヴィジョン(示現)が、神ならぬ被造物に由来するものであるかぎり、そのようなものは神との間に何のつりあいも結びつきもないため、理性にとって、神との一致のための至近の手がかりになるものではない。したがって、そのための至近の道である信仰を通じて進むためには、前に述べたその他のヴィジョン(示現)の場合と同じように、それらに対してきっぱりと拒否の態度をとらなくてはならない。故に、霊魂のうち.に刻まれて残るこのようなヴィジョン(示現)のイメージを、記憶の中に集めておいたり、宝のように大切にしてみたり、またそうしたものを心の支えにするようなことがあってはならない。そのようなことをすれば、心に残るイメージや、だれかれのことなどにとらわれて邪魔され、何もかも切りすて、神に向かってゆくことができなくなるからである。
そうしたイメージがいつも心に現われるようなことがあっても、そうしたことに関心がなくなれば大して妨げになるということもないであろう。もちろん、こうしたイメージの思い出が、いくぶんなりとも神の愛や観想への励ましとなることは事実であるけれども、そうしたすべてのものから剥ぎ落とされた赤裸々な暗黒の信仰の方が、それがどこから、どういうふうに来るのか分からないままに、はるかに心の励ましとなり、またそれを高めてくれるものである。
このようにして、非常に清らかな神の愛に焦がれて、しかも、それがどこか.ら来るのか、どこに根をおろしているのかも分からないままに前進してゆくことになる。
あの、すべてのものを洗い落とし、何ものも見えなくなる赤貧、すなわち魂の赤貧、それらは皆同じものと言うことができるによって、信仰が魂の中に深く入りこみ、そこに根をおろすようになると、それと同時に神の愛も、ますます注ぎこまれ根をおろすようになる。すなわち、外から、または中からうけとり得るすべてのことに対して自分の目を閉じ、全く無になるように望めば望むほど信仰が深まり、それに従って、信仰とひとつのものとして成長する愛徳も望徳も、より多く注ぎこまれることになる。
しかし、時にこの愛は、当人自身が気づくこともなく、また感ずることもない。というのは、それは心のぬくもりのような感じの中にあ.るのではなく、魂の中にしっかり座を占めているもので、以前よりは一層勇気と大胆さにみち、それが時には、感覚にまで溢れ、優しく快いものに感ぜられることがある。そのようなヴィジョンがつくりだし、また生みだす愛のよろこびに達するためには、そうしたすべてのものから離れ、目を閉じるためにカと、自らをおさえる愛をもっていなくてはならず、またすべてのものを超えた解すべからざる神という、この世では見ることも感ずることもできないものに、その礎をおいていなくてはならない。すなわち、何もかも捨てることによって神に向かってゆかなくてはならないのである。もしそうでなければ、たとい賢く謙遜で強く、悪魔がいつものように、その人を欺くこともまた自負心をもたせるようなこともできないと仮定しても、その人の進歩を阻むことはあり得るのである。というのも、神との一致に必要な霊的赤裸、魂の赤貧、信仰における無に徹しきれないように妨げをおくからである。
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