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4-6-5 南朝の落日

カトリック

『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年

6 江南の王朝
5 南朝の落日

 梁(りょう)の武帝なきあと、三年がかりで侯景をほろぼすことに成功した第七子の蕭繹(しょうえき)、すなわち元帝(げんてい)が、ふるい歴史をもつ建康においてではなしに、長江中流の江陵(こうりょう)において即位する。
 しかし、この元帝政権も、三年ののちには、強力な西魏軍によって粉砕されてしまった(五五四)。
 江陵の貴族と人民の多くが北方につれさられ、十数万人が奴隷にされたといわれる。
 北方につれさられた貴族のおおむねは、侯景の戦乱によって荒廃しつくした建康を逃げだして、たまゆらの安息を江陵にもとめていた人たちであった。
 そして元帝なきあとの江陵には、西魏の傀儡(かいらい)政権がたてられた。
 いっぼう建康には、いま一度、ひとつの王朝がたてられる。陳覇先(ちんぱせん)による陳である(五五七)。
 かれは侯景の鎮圧にきわだった功績があり、かつまた東魏のあとをついだ北斉(ほくせい)からの武力介入をはねのけたうえで、あたらしい王朝をひらいた。
 スケールはひとまわり小さいが、民族の危機をすくった英雄として、劉裕(りょうゆう)といくらか似たところがある。
 しかし陳王朝は、その第一歩から苦難の道をあゆまねばならなかった。
 北朝の優勢はおおいがたく、それまで南北の境界は黄河か淮水(わいすい)であったのが、侯景の戦乱がおわってみると、長江の北はすべて北朝の領土となっていた。
 文化的にも、あまたの人材が北朝につれさられた結采、かっての優位を北朝にゆずりわたした。
 「江南は佳麗(かれい)の地、金陵(きんりょう)は帝王の州(くに)。」
 斉の謝眺(しゃちょう)によって、このようにうたわれた金陵、すなわち建康(けんこう=南京)をも、侯景の戦乱は廃墟と化しさった。
 梁の武帝の盛時には、百数十万の人口をかぞえた建康が、ある歴史家の表現をかりれば、いまや「百に一、二をのこす」だけであった。
 かがやかしい貴族社会のシンボルともいうべき建康の荒廃は、貴族社会そのものの没落をしめすであろう。
 陳の王朝をもりたてた主体は、もはや貴族ではなく、貴族たちから田舎侍(いなかざむらい)なみのあつかいをうけてきた土豪たちであった。
 ひとにぎりの貴族たちは、まだ余命をたもってはいたけれども、伝統に生きるかれらの文化的洗練度が、王朝の体面をつくろうかざりとして利用されたにすぎない。
 あらたに力をもつことになった土豪は、農村の不況によって、たえまなく発生する流亡農民を収容しつつ、着々と地盤をきずきあげていたのであった。
 そして侯景の戦乱と、それにつづく果てしない混乱期に、各地に蜂起した風雲児たちであった。
 サラリーマン化した貴族は、身をよせるべきいなかをもたず、俸祿を支給してくれる梁王朝がくずされると、かれらの生活の基礎も同時にふっとんだのである。
 だが、このあたらしい社会――陳王朝も、その花をさかせ実をむすばぬうちに、北方の強力な武力によって根こそぎにされてしまった。
 北方の覇者となった隋(ずい)に屈伏したのであった。
 陳の最後の天子、そして南朝の最後の天子となる後主(こうしゅ)は、柔弱な天子の見本として史上に名だかい。
 かれはお気にいりの妃をだきかかえながら、数名のとりまきたちと政務をとった。膝のうえの妃は、しばしばくちばしをさしはさんだ。宮城のなかには、臨春(りんしゅん)、結締(けっき)、望仙(ぼうせん)と名づけられた楼閣がきずかれ、窓や欄(おばしま)には香水をつかい、金玉や真珠やヒスイがちりばめられた。
 微風にのった香木のかおりは数里のとおくにまでとどき、金玉と宝石は朝日をうけて燦爛(さんらん)と光をはなつ。
 臨春閣には後主が起居し、あとの二閣には側室がすまって、回廊づたいに自由にゆききされる。
 そこでは、日ごと夜ごとに宴がはられ、あだっぽい詩が管絃にのせてうたわれた。
  うるわしき宇(みやい)と芳(かんば)しき林とは高き閣(たかどの)に対(むか)い
  あたらしく妝(よそお)える艶(あだ)なる質(すがた)は本(もと)より城を傾(かたむ)く
  すがたは戸に映(うつ)りしも嬌(こび)を凝(こ)らして乍(たちま)ち進まず
  帷(とばり)を出(い)で態(しな)を含(つく)りて笑いて相迎(あいむか)う
  妖(なまめ)かしき姫(おんな)の瞼(めもと)は花の似(ごと)く露をふくみ
  玉の樹に流るる光は後(うしろ)の庭を照らす

 これは後主みずからがよんだ「玉樹後庭花> (ぎょくじゅこうていか)」と題する詩である。
 外部からは日ましに加わる北朝の重圧、内部にはいまなおつづく土豪の割拠(かっきょ)、これらの不安におののく心が、かれをして軟弱な文学とデカダンスの生活におぼれさせたのであろう。
 隋の軍隊がいよいよ宮殿になだれこんできたとき、あわてふためいた後主は井戸にとびこんだ。
 隋軍がこれを発見し、綱をたらした。ひきあげるときにあまりに重いので不思議におもっていると、一本の綱にふたりの妃と後主、あわせて三人がいっしょにすがって姿をあらわしたという。
 ときに隋の開皇九年(五八九)正月甲申(きのえさる)、太陽暦に換算すれば二月十日であった。
 宋の建国から百七十年、東晋の建国からかぞえれば二百七十年におよぶ江南の王朝は、ここに最後の幕をとじたのであった。
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