カトリックであることを恥じ、隠す者たち

リギョル神父『青年の友』聖ヨゼフ教育院
【37】カトリックであることを恥じ、隠す者たち
カトリック教徒の義務のうちで、極めてむずかしい事であるとは言えないけれども、時としてまことに行い難いことがある。それは、神信心の義務である。これは奇怪なことで、ほとんど不可解のようにも思われる。人は、特に青年ならば、自分の父、もしくは自分の首領に不敬でもしようならば、面目次第もないという。自分の友に失敬しても、そう思う。今や、まさに戦おうと整列している軍隊に面しても、怖れることもなく、ひるむこともなく、勇ましく進軍する。
しかし、なぜであろうか。神に対して尽くすべき尊敬をなし、天地の主宰を公に礼拝するということになると、同じ人が、同じ青年があたりをはばかって、躊躇し、逡巡し、誰か見ていようものなら、顔を赤らめている。力が失せてしまって、心中の信念を隠蔽し、何も知らないような顔をする。まことに恥ずかしくて言いにくいことであるが、昔は一小武士でさえ、その主君の家来であることを非常の名誉と思っていたのに、カトリック教徒はその名を誇らずして、かえって恥じる。あたかも神の家来であり、神の武士であることが恥ずかしいことでもあるかのような有様である。
こうした弱点にはいろいろの原因がある。第一は、カトリック教徒が他の人々の前に面目を失うとき、あるいは単に良心にやましい所があるときには、身を隠して、人の前にも出られないと重い、自ら恥じ、また、怖れる。
それゆえ、わたしは既に青年諸君に向かって言った。今またここに繰り返して言う。諸君が勇敢であろうと思えば、やましい所がないようにしなければならない、と。
次に多くの人々は心にこう思っている。信仰と迷信はつまり同じ事であるから、祈ったり、拝んだり、ひざまずいたりするようなことは、迷信的行為に過ぎないと。したがって祈ったり、拝んだりする者は無論無知な者か、心の弱い者ばかりである。無知な者であるというのは、何も理由を知らないからだし、心の弱い者であるというのは、生きるが為にこうしたなぐさめが必要であるからである。
しかし、智慧の開けた者や、依頼心のない者はそんな弱味はない。彼は祈りもしなければ、拝みもしない。そんな事をしている者を不憫に思う。これは実に何を言っているのか自ら知らずにいる多くの人々の説である。諸君は機会があったならば、諸君が何故信じているか、また、何故神を拝んでいるかをこの人たちに知らせるはずである。
いずれにしても、諸君は人の嘲笑や軽蔑などに動かされる前に、まず、その人をよく調べ、どのような者であるか、何を為しているか、どんな価値のある者であるかを見るはずである。
従って、その人の判断はどれほどの重みのあるものかを考えてみるはずである。諸君がそれをよくよく調べてみると、常には怖れるようなことがなくなってくる。
しかし、その人を軽侮してはいけない。善人は決して人を軽侮しない。侮辱されれば、黙ってしまう。そんなことを少しも気にかけずに悠然として立ち去ってしまう。
諸君は定めしアムベールの話を聞いたであろう。彼は19世紀の大哲学者であった。しかし、諸君は彼がその学識と同じく敬虔によっても有名であったことは、多分知らないかもしれない。
朝、執務の為に出て行くとき、聖堂の前を通り過ぎるとき、必ず聖堂に参拝して、どこと座席を選ばず、ときとしては老婆や子どもなどの中に入ってひざまずき、普通のカトリック信者のように祈りをして、人が見ているかどうかをすこしも考えないような有様であった。祈りをし終わってから、得々として立ち去り、その実験およびその発明を継続したのである。これを知っていた人人はみな感心していた。
他の人々はびっくりしていた。けれども、これを見て誰もあえて笑う者はなかった。こんな人格の高い人に対しては誰も笑わない。黙ってしまう。
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