4-3-2 東方の経略

『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
3 東海と西域
2 東方の経略
実際のところ、中国の軍隊が、朝鮮半島の東岸や、東北地方(いわゆる満州)の奥地にまで足をふみいれたのは、魏の時代(三世紀)が始めであった。
それより三百五十年ほど前、すなわち漢の武帝のとき(前二世紀の末)、漢の軍隊は遼東半島をこえて、朝鮮の西北部を征服した。
そして楽浪(らくろう)郡や、玄莬(げんと)郡などをおいた。
しかし漢の軍隊も、朝鮮の東岸や、東北の奥地にまでふみこんだわけではなかった。
そこは中国人にとって、見知らぬ土地であった。
しかも後漢の末期(二世紀の後半)、漢の帝国の力がおとろえるにしたがって、東北の地方への統制がゆるんだ。
そのすきに乗じて、遼東地方をおさえた公孫(こうそん)氏は、漢の支配からはなれ、独立国のようにふるまうにいたった。
東方、いまの鴨緑江(おうりょくこう)の中流域には、高句麗(こうくり)という国ができている。
これを、公孫氏はしたがえてしまった。さらに朝鮮半島にも力をのばして、いまの平壌にあった楽浪郡をうばった。
また楽浪郡の南部をさいて、あらたに帯方(たいほう)郡をおいた。
帯方郡の郡役所は、いまのソウル(京城)のちかくに設けられた。
おりから中国では、魏と呉と蜀の三国が、たがいに争いあっている。
北方をおさえた魏の国にしても、ほかの二国とたたかうのが精いっぱいで、東北へ力をのばす余裕はなかった。
曹操のときも、その子の文帝のときも、東北は公孫氏のおもうままであった。しかし文帝のつぎに、明帝が立って(二二六)から八年、蜀の諸葛孔明(しょかつこうめい)が死んだ。
それまで魏の軍は、しばしば孔明のために苦しめられていたのだが、孔明が死んで蜀の力がおとろえたとなると、もはや西方には大軍をさく必要もない。魏は、ようやく東北方へ目をむけた。
いや、それよりも前に、南方の呉の国が、公孫氏に目をつけていた。
公孫氏も、魏の国に対抗するため、呉とむすぼうとした。東方の海上をとおって、使者がゆききしていた。
まさしく魏にとっては、ゆだんのならぬ情勢になっている。ついに魏は、明帝の景初二年(二三八)、大軍をくりだして公孫氏を討った。
これをひきいたのは、蜀との交戦において大功を立てた司馬懿(しばい)である。
たちまちにして公孫氏の軍をやぶり、これをほろぼしてしまった。
同時に、海上から進んだ別軍は、朝鮮半島に上陸して、楽浪郡と帯方郡をおさめた。
こうして魏の国は、遼東地方と朝鮮半島の中心部を、いっきょに手にいれたのである。倭(わ=日本)の国の女王が、使者をつかわしてきたのは、その翌年のことであった。
ところで公孫氏はほろびたものの、鴨緑江の中流域には、高句麗の国がある。ツングース系の民族が建てた国であった。
いまや魏の勢力は、高句麗(こうくり)とまともに接するにいたった。
しかも高句麗は、なかなか魏にしたがおうとはしない。かえって侵攻してくるありさまである。
こんどは、高句麗を討たねばならぬ。まえの遠征から六年をへて(二四四、正始五年)、魏の大軍は高句麗に進んだ。
そして、国都の丸都(がんと)城をおとしいれた。高句麗の国王は東方へのがれた。
これを追って、遠征は翌年もつづけられる。
こうして魏の軍の一部は、半島の東北境、いまの豆満(とまん)江の河口あたりにまで達したのである。
土地の老人から、ふしぎな話をきいたのは、そのときのことであった。
それだけではない。魏の軍は、いわゆる東北の奥地にまで進んだ。いまの長春の北方にまで達したものと思われる。
その結果、これまで知られなかった東北の地方のようすが明らかとなった。
奥地の住民(ツングース族)の未開の暮らしぶりも紹介された。
「(奥地の人びとは)山林の間にいて、ふだんは穴(たてあな)をほって住居としている。
ブタをかって、その肉を食べ、その皮をきる。冬には、ブタのあぶらをこってりと身にぬって、風や寒さをふせぐ。
夏には、はだかになって、布で前後をかくすのみ。みんな不潔で、まんなかに便所をつくり、人びとはそれを取りまいて住んでいる。」
中国の人びとにとっては、おどろくべき生活であったに違いない。
それも、まさしく新しい知識であった。
そうして『魏志』には、これらの東北や、朝鮮半島の人びとの暮らし、また国情をくわしく紹介して、「東夷伝」が設けられた。東夷とは、東方にいる野蛮人という意味である。
この東夷伝のなかに、わが国のことをしるした倭人(わじん)伝もあった。
(絵は古代朝鮮人と三国時代の朝鮮半島)