4-9-3 暴君煬帝

『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
9 隋朝の二代
3 暴君煬帝
煬帝の煬とは「礼を去り、衆を遠ざく」という意味で、皇帝としての資格を欠いているものにつけられるおくり名である。
煬帝という帝号が、すでに暴君であることを示している。
はたして煬帝の暴君の内容は、どのようなものであったのか。
隋の文帝は、はじめ長子の勇を太子としたが、勇は独孤皇后に好かれなかった。
しかし勇の弟の晋王広、すなわちのちの煬帝は父母のごきげんとりがうまい。
そのうえ武将としてもすぐれた才能があり、征陳の役には行軍元帥としてかがやかしい勲功をたてた。
いろいろな点から兄の太子勇を圧倒したのである。
さらには、政界に大きな地位を占めてきた楊素と、かたくむすぶ。
この形勢を見て、太子勇の悪事を告発するものがあった。
開皇二十年(六〇〇)に太子勇は廃され、晋王広が太子となった。
仁寿四年(六〇四)、文帝の病があついとき、かたわらには陳の宣帝(後主の父)の娘である宣華夫人が侍(じ)していた。
独孤皇后はその前々年になくなっている。
ある朝のこと、宣華人人が衣裳をかえるために文帝のもとをはなれると、皇太子の広は夫人にせまり、夫人は顔色をかえて文帝のもとに逃げかえった。文帝がわけをたずねた。
「太子、無礼なり」と夫人はいった。
文帝は、さけんだ、「畜生(ちくしょう)、なんぞ大事を付するに足らんや。独孤(皇后)まことにわが意をあやまれり。」
さらに文帝は「わが児(こ)を召せ」という。太子広をよぼうとすると、「勇を召せ」と。
このことを楊素につげると、楊素は太子広につげた。広は文帝のもとへゆき、侍者をすべて別室にしりぞけたなかで、文帝はとつぜん崩御された、と史書は記している。
太子広が文帝を殺したという説もあるが、真相はわからない。
その夜に広は、宣華夫人と関係した、とも記されている。
このような不明朗ななかで広は即位し、煬帝となった。
即位ののちも、暴君たるの実例はたくさんあげられている。
首都の大興城(長安)のほかに、洛陽に東京を建設して、二百万もの人民をつかった。
めずらしい植物や動物をあつめるために人民を動員し、その途中で苦しさのあまり倒れるものが半分もあった。
また諸国から使臣が来朝したとき、その人たちをもてなすため、宮城のなかに八里(一里は約四五〇〇メートル)にわたって演技場をつくった。
演技者は男も女の服装をして、宝石をつけ、玉を鳴らし、その数は三万にのばった。
そのため首都付近の絹はすっかりなくなった。
このようなぜいたくのために多くの人民を酷使した実例はほかにも多い。
たしかにこれだけでも、暴君の名にあたいするであろう。しかし煬帝は、このような豪奢(ごうしゃ)な生活をいとなんだだけで、政治上になんら見るべきものがなかったのだろうか。
べつの面から、煬帝の政治をながめてみよう。
たとえば当時(大業年間、六〇五~一六)の人口の統計をみると、戸数およそ九百万、人口は四千六百万となっている。
つぎの唐代の太宗のとき(いわゆる貞観の治)において、戸数が三百万に満たない、とされているのにくらべれば、意外に多い。煬帝のときの統計が、まちがっているのだろうか。
しかし、それより六百年も前の漢代の統計などを参照してみれば、かならずしも架空の数字でないことが、わかるであろう。
してみれば、煬帝の統治は、唐代の盛時にくらべても、かなりすぐれたものであった、とも考えられるわけである。
戸口の統計は、行政の浸透度をしめしている。
これは、いちばん下の行政区画たる県から、つみあげてゆかねばならぬ。
統計のあること自体が、すでに統治のゆきわたっていることを、あらわしているのである。
そのことは、いまの国勢調査をおもいうかべても、よいであろう。
一時の暴政によって、統計はつくりだせるものではない。
煬帝が暴君であったというのも、たしかに一面ではその通りであろう。
しかし煬帝には、べつの面で政治に精励し、効果をあげていた点も、みとめてよいのではなかろうか。
煬帝がおこなった最大の事業としては、大運河をひらいたことがあげられる。
これにも、たくさんの人民を狩りたてたし、龍舟をうかべて南北への遊幸をたのしんだ。
そうしたことのほかに、大運河は南北の物資の流通に大きな効果をもたらしたのである。
私たちが煬帝のことを知る資料は、『隋書(ずいしょ)』である。
それは唐朝の史官によって書かれたものであり、唐朝は煬帝の隋をほろぼして建国したのである。
歴史の資料は客観的のように見えながらも、じつは勝ったがわの記録だけしか残らないばあいが多い。
勝者の敵となったものについての歴史の記述のあわれさは、ここにもあらわれているのではないだろうか。
唐朝の史官にしてみれば、煬帝を暴君として書けば書くだけ、その創業の正当さが主張できるのであった。