カトリック情報(緊急避難ブログ)

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

4-17-4 トルキスタンの成立

カトリック

『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
17 トルコ帝国
4 トルキスタンの成立

 ウイグル帝国は八世紀の後半から、九世紀のはじめにかけて、大いに栄えた。
 とくに八世紀の後半においては、たまたま唐は大乱にみまわれている。
 いわゆる安史の乱である。唐の朝廷はウイグルに援兵をもとめた。
 ウイグルの兵は、たびたび唐の国内に出動する。長安にも、洛陽にもおもむいた。
 モンゴルの草原にそだった遊牧の民も、こうして中国の文化を、ぞんぶんに味わったのであった。
 つづいてウイグルは、西方にむかっても、その勢力をひろげた。
 それは軍事上の発展だけではない。
 注目すべきものは、東西をむすぶ貿易の発展であった。ソグドの商人が大いに活躍する。
 ウイグル帝国のなかにあって、ソグド人たちは貿易に従事し、また西方の文化や技術を、この国につたえた。
 こうしてウイグルの領内には、中国から、そしてイラン地方から、さかんに文化が流れこんだのであった。
 いまや草原のなかに、都市までも建設せられた。
 もちろんウイグル人の大部分は、むかしと同じように遊牧の生活をいとなみ、移動することが可能なテント式の住居にくらしていた。
 しかしそれとは別に、都市において定住の生活をいとなむ者もあらわれたのであった。
 ハガンの宮殿も建てられた。さまざまの宗教のために、寺院も建てられた。
 東西からもたらされる物資を交易するために、市場もつくられた。
 もはやウイグルの一部のものは、まさしく文明の民であった。
 しかし帝国そのものの命脈は、意外にもあっけなかったのである。
 九世紀になると、ハガンの位をめぐって、うちわの争いがはげしくなった。
 おのおの国外から、軍隊をひきいれて抗争する。これが帝国のいのちとりとなった。
 そして八三九年、北方からキルギス(やはりトルコ種)の軍がはいりこんでくるにおよび、ついに帝国はほろぼされたのである。
 モンゴル高原における覇権も、百年でおわった。
 ウイグルの人々は、四方に散った。南へ走って唐の北辺にいたったものは、やがて唐の帝国に服属した。
 西方へ走ったものは、甘粛の地にはいりこんだ。そして、その地にあたらしい政権を建てた。
 中国人からは、甘(かん)州回鶻(ウイグル)、沙(さ)州回鶻などとよばれた。
 沙州とは、敦煌(とんこう)のことである。
 有名な石窟のある敦煌にも、ウイグル人が住むようになったのであった。
 西へ走ったものは、中央アジア、すなわち西域の地へはいりこむ。
 そこは、むかしからアーリヤ人の住地であった。
 その人々を征服して、ウイグル人は各地に政権を建てる。
 もはやウイグル人も、遊牧の生活をすてた。
 ふるくから文明のさかえた都市に、支配者としてのぞみ、定住の生活にはいった。
 すでに、みずからも文明の域に達していたウイグル人は、アーリヤ人の文化に吸収されてしまうこともなかった。
 独白の文化をきずいてゆくことが、できたのである。
 こうして西域は、ウイグル人の土地と化していった。
 トルキスタンという称呼も、ここに由来する。それはトルコ人の土地、という意味である。
 九世紀のなかば以後、ウイグル人たちが住むようになって、はじめて中央アジアはトルコ人の土地となったのであった。
 その形勢は、現在までつづいている。
 のち十八世紀のなかばになって、清(しん)朝は中央アジアの東半を征服した。
 新しくひらいた土地という意味で「新疆(しんきょう)」と名づけた。
 その住民は八割までがウイグル人である。漢字で書けば、回鶻人である。よって回族とよばれる。
 いま、中華人民共和国においては、ここを新疆(しんきょう)回鶻(ウイグル)自治区となし、ウイグル人の自治をみとめている。
 またウイグル人の住地には、西方からイスラム教がはいりこんでくる。
 そうしてウイグル人の多くは、イスラム教の信者となった。
 そうして、さらに中国ヘイスラム教が伝えられると、これを中国人は、回鶻(ウィグル)人の信ずる教えと見なした。
 イスラム教のことを「回教」というのは、ここから生まれたわけである。
 トルキスタンの西半は、ロシア帝国の領土となった。
 それは、いまのソビエト連邦にひきつがれた。
 ソ連は十五の共和国をもって構成されているが、そのうちトルキスタンに五つの共和国があり、いずれも主要な住民はトルコ族に属する。
 こうして現在においても、トルキスタンの地は中国領とソ連領をふくめて、まさしくトルコ人の土地とよばれるのに、ふさわしい。
 その起源が、ウイグルの西遷によるものであった。
 トルコ人は、ウイグル帝国の崩壊によって、モンゴル高原の故地をすてた。
 しかし、その後はトルキスタンから、西アジアの一帯にひろがる。
 そうしてトルコ人の一部はイスラム圈のなかにおいて、めきめきと頭角をあらわした。
 十一世紀にはセルジューク帝国が建てられ、ヨーロッパのキリスト教国をなやまして、十字軍とたたかった。
 さらに十三世紀の後半には、小アジアを本拠としてオスマン帝国が建てられた。
 それはアフリカの北部から、バルカン半島にまで進出し、三大陸にまたがる領土をひらいたのである。

×

非ログインユーザーとして返信する