6-6-1 屈辱と亡国:宋朝の復興

『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
6 屈辱と亡国
1 宋朝の復興
宋朝はほろび、華北の地は金(きん)軍の占領するところとなって、混乱をきわめていた。
ところが金国としても、中原の地をうまく文配する自信がない。
直接に統治すれば、中国人のなかから強い柢抗のおこることが案ぜられた。
そこで人質にとっていた宋朝の高官張邦昌(ちょうほうしょう)をまつりあげ、形だけの皇帝にして「楚(そ)」国をつくらせた。ところで張邦昌は、金軍に脅迫されて心ならずも皇帝を名のったのである。
気持がおちつかない。
金軍がひきあげると、わずかに残っていた皇族の一人、哲宗の皇后であった孟氏を宮廷にまねきいれた。
かって孟氏は、新旧党争のあおりをくらって皇后を廃され、尼僧となっていたのであった。
皇族の籍からも除かれていたので、金軍の手配をまぬがれた。
張邦昌は、この孟氏を皇太后とあがめ、みずからは帝位をしりぞいた。
こうして楚国は、わずかに三十余日で崩壊してしまった。
孟太后は、欽宗の弟の康(こう)王を正統の天子として指名した。
かくて康王は河南の応大府(いまの商邱)におもむき、帝位にのぼって宋朝を復興する(一二一七)。
これが高宗であり、これより後の宋朝は「南宋」(以前は北宋)とよばれるようになった。
張邦昌は自殺を命ぜられた。
さて宋朝は復興したものの、華北の混乱はおさまっていない。
金では張邦昌を殺したことを怒り、大軍をもって攻撃してきた。
高宗の政権は動揺し、むかえうって抗戦せよと主張する派と、鋭鋒をひとまずさけて江南への遷都を主張する派とにわかれた。
抗戦派はおもに武将であり、遷都は文官の主張であった。
高宗は遷都をえらび、長江をわたって杭州におちつく(一二一九)。
ここを臨安と名づけたが、南宋の人は行在(あんざい)とよんだ。
のちの杭州をおとずれたマルロ・ボーロは「キンザイ」としるしている。
これは行在がなまったものであった。
南宋の朝廷にしてみれば、杭州はあくまで臨時の皇帝の居所であり、そこには開封、ひいては華北を奪回しようという願いがこめられていた。
しかし、ここにも反乱がまちかまえていた。
反乱勢力は赤心隊八百人を中心に、二百五千からの兵力をもち、高宗の退位と女真との即時講和を要求していた。
基礎の固まらない高宗政権にとって、ひとつの危機であった。
それも抗戦派の張浚(ちょうしゅん)らの活躍によって、一ヵ月たらずで平定される。
ここでは抗戦派が高宗を擁護し、和平派が高宗を否定する形がとられている。高宗政権の内部は、女真の圧力の前に、かなり複雑であった。
一方金軍は、南宋の基礎の固まらないうちにほろぼそうと、するどく進撃する。北方民族に対して天然の要害と思われた長江を、金軍の騎馬はわたった。こうして一時は臨安の都も陥落し高宗は温州の海岸際まで追いつめられた。
しかし騎馬の金軍にとって、水路の多い江南での戦闘は不得手であった。
のびすぎた戦線をささえるには、金軍の力にも限界があった。
やがて金軍は江北へひきあげ、ようやく南宋も息をついた。
複雑さをはらみながらも、これで南宋の基礎が固まるかにみえた。
しかし翌年になると、またも大きな反乱がおこされる。
鍾相(しょうしょう)にひきいられた民衆が、洞庭湖畔を中心に蜂起したのであった。
このころ民間には、宗教色をおびた秘密結社がさかんであった。
生活の苦しさから、相互扶助をもとめる貧民が多かったためである。
鍾相は地主といわれるが、方臘(ほうろう、5.6項参照)とおなじく、マニ教の彫響をうけた秘密結社の教主であった。
鍾相は女真が侵入したとき、その蹂躙(じゅうりん)から村々をまもろうと、義勇軍を組織して抵抗した。
宗教的な色彩をもった義勇軍のはなばなしい動きは、たちまち高宗政権から疑いの目でみられるようになる。
ついに鍾相は反乱に立ちあがり、楚王と号して年号さえ設けた。
いまや明らかに高宗政権に対立したのであった。
反乱は民衆反乱の性格を強めていく。大商人や大地主や役人たちが、攻撃の目標となった。
「貴賎貧富をわかつ政治は、よい政治ではない。貴賎をなくし、貧富を均しくせん。」
これが反乱のスローガンであった。
「均貧富」は、このころの民衆反乱に共通してみられたスローガンであった。
方臘の反乱も平等をかかげている。唐末の黄巣(こうそう)の大乱でも、黄巣がとなえた称号のなかに天補均平大将軍というものがあるから、やはり均貧富の性格をもっていたといえよう。
このように均貧富の民衆反乱、つまり均産一揆は唐末から蜂起していた。
それは租税の減免などにくらべ、はるかに徹底した民衆の要求であった。
さて、鍾相はやがて宋軍に捕えられるが、その後も反乱軍は、あるいは柵をきずき、舟をあやつり、宋軍の意表をつく。
一時は臨安をも目ざしたほどで、南宋は岳飛(がくひ)を討伐にむかわせなければならなかった。
かくて足かけ六年にわたり、宋代の民衆反乱のなかでは、もっとも長く抵抗した。
それだけ高宗の政権を手こずらせたのであった。
この反乱を鎮圧してから、南宋の蘂礎もようやく固まりをみせる。
そのころ「蘇湖(蘇州と湖州)熟すれば、天下足る」といわれたが、それはどの穀倉地帯をふくむ長江の下流域をおさめていたことが、南宋にとってきわめて有利であったのである。
