6-13-3 宮廷のヨーロッパ人
『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
13 内陸の王者
3 宮廷のヨーロッパ人

ティムールが中国への遠征に旅立つすこし前、その宮廷には一人のドイツ人と、一つの使節団の姿があった。
ドイツ人とは、ババリア(バイエルン)の兵士ヨハン・ソルトペルゲルであり、使節団とはエスパニア王(正しくは、カスティリァ・レオン王)エンリケ三世からつかねされた騎士ルイ・ゴンザレス・デ・クラビホを団長とするものであった。
シルトペルゲルは、ハンガリー王のひきいる十字軍に加わり、オスマン帝国の「稲妻王」バヤジット一世の軍隊と戦って捕虜になった(一三九六)。
ところがアンカラの戦(一四〇二)で、今度はティムール軍に捕えられ、サマルカンドに連行される。
そしてティムールの死後、キプチャク汗国につれ去られたが、一四二七年に釈放され、ようやく帰国することができた。
その数奇な運命をつづった手記は、なにぶん一兵卒の筆になるものだけに、そのすべてを信用するわけにはゆかない。
しかし、かえってそのために、一捕虜の見聞録として、それなりの意味をもつといえよう。
それにつけても、こうした記録さえのこさぬままに、故国の土を恋いこがれつつ、中央アジアの地に埋もれていった多数の捕虜の身の上にも、思いをはせざるをえないのである。
これに対して、クラビボは、ティムールに拝謁をゆるされて、大いに歓待された。
そのときのティムールについては、つぎのように描いている。
「彼は美しい宮殿とおぼしきものの入口を背にして、一種の門構え式のものの下に席を占めていた。
すわっていたのは一段たかい壇の上で、その前には噴水があって一本の水柱を空中に上げ、噴水池には真赤(まっか)なリンゴが、いくつも浮かんでいた。
殿下(ティムール)は、小さいが部厚い刺繍(ししゅう)のある絹地のマットレスのようなものを敷き、うしろには丸いクッションを積みかさね、ひじでもたれかかっていた。
なんの縫いとりもない無地の絹の打ちかけを着ていたが、頭には、てっぺんに紅玉・ルピーがちりばめられ、真珠や宝石類でかざられている白色の高い冠をかぶっていた。」
使節たちは、ティムールの前に出ると平伏した。ティムールは立つように命じ、たずねた。
「わが息子、汝らの王はいかが過ごしおるか。無事か。」
一行がこたえると、ティムールは、臣下にむかって言った。
「わが息子たるエスパニア王の派遣してきた、これらの大使たちを見よ。
彼こそ地上の四分の一以上を支配し、フランクの王たちのなかでももっとも偉大な王であり、その民も偉大にして名だたる民である。
余はわが息子、エスパニアのこの王に、友好の意を伝えたく思う。彼は、その大使たちに書状だけを持たせてくれば十分なのだ。
貢物や進物の儀には及ばなかった。
彼のつつがなきことを知りさえすれば、余は満足で、贈りものなど求めたことはなかったのだ。」 (山田信夫訳にとる、以下も同じ)
ティムールの世界征服者としての面目が、躍如としているのではないか。
このエスパニアの使節によれば、サマルカンドは「町自体も(エスパニアの)セビリャより大きい」が、その外には、果樹園やブドウ園でかこまれた郊外があった。
ここには市内よりはるかに多い住民がおり、あらゆる種類の商品、パン原料や食肉類が売られ、またティムールの宮殿や、きもちのよい多くの庭園があった。

13 内陸の王者
3 宮廷のヨーロッパ人

ティムールが中国への遠征に旅立つすこし前、その宮廷には一人のドイツ人と、一つの使節団の姿があった。
ドイツ人とは、ババリア(バイエルン)の兵士ヨハン・ソルトペルゲルであり、使節団とはエスパニア王(正しくは、カスティリァ・レオン王)エンリケ三世からつかねされた騎士ルイ・ゴンザレス・デ・クラビホを団長とするものであった。
シルトペルゲルは、ハンガリー王のひきいる十字軍に加わり、オスマン帝国の「稲妻王」バヤジット一世の軍隊と戦って捕虜になった(一三九六)。
ところがアンカラの戦(一四〇二)で、今度はティムール軍に捕えられ、サマルカンドに連行される。
そしてティムールの死後、キプチャク汗国につれ去られたが、一四二七年に釈放され、ようやく帰国することができた。
その数奇な運命をつづった手記は、なにぶん一兵卒の筆になるものだけに、そのすべてを信用するわけにはゆかない。
しかし、かえってそのために、一捕虜の見聞録として、それなりの意味をもつといえよう。
それにつけても、こうした記録さえのこさぬままに、故国の土を恋いこがれつつ、中央アジアの地に埋もれていった多数の捕虜の身の上にも、思いをはせざるをえないのである。
これに対して、クラビボは、ティムールに拝謁をゆるされて、大いに歓待された。
そのときのティムールについては、つぎのように描いている。
「彼は美しい宮殿とおぼしきものの入口を背にして、一種の門構え式のものの下に席を占めていた。
すわっていたのは一段たかい壇の上で、その前には噴水があって一本の水柱を空中に上げ、噴水池には真赤(まっか)なリンゴが、いくつも浮かんでいた。
殿下(ティムール)は、小さいが部厚い刺繍(ししゅう)のある絹地のマットレスのようなものを敷き、うしろには丸いクッションを積みかさね、ひじでもたれかかっていた。
なんの縫いとりもない無地の絹の打ちかけを着ていたが、頭には、てっぺんに紅玉・ルピーがちりばめられ、真珠や宝石類でかざられている白色の高い冠をかぶっていた。」
使節たちは、ティムールの前に出ると平伏した。ティムールは立つように命じ、たずねた。
「わが息子、汝らの王はいかが過ごしおるか。無事か。」
一行がこたえると、ティムールは、臣下にむかって言った。
「わが息子たるエスパニア王の派遣してきた、これらの大使たちを見よ。
彼こそ地上の四分の一以上を支配し、フランクの王たちのなかでももっとも偉大な王であり、その民も偉大にして名だたる民である。
余はわが息子、エスパニアのこの王に、友好の意を伝えたく思う。彼は、その大使たちに書状だけを持たせてくれば十分なのだ。
貢物や進物の儀には及ばなかった。
彼のつつがなきことを知りさえすれば、余は満足で、贈りものなど求めたことはなかったのだ。」 (山田信夫訳にとる、以下も同じ)
ティムールの世界征服者としての面目が、躍如としているのではないか。
このエスパニアの使節によれば、サマルカンドは「町自体も(エスパニアの)セビリャより大きい」が、その外には、果樹園やブドウ園でかこまれた郊外があった。
ここには市内よりはるかに多い住民がおり、あらゆる種類の商品、パン原料や食肉類が売られ、またティムールの宮殿や、きもちのよい多くの庭園があった。
