7-5-5 ローマの掠奪

『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
5 斜陽のイタリア半島――イタリア・ルネサンスの片影Ⅱ――
5 ローマの掠奪(りゃくだつ)
軍事的であるという点で非難されたユリウス二世は、その剛毅果断な性格をもって、聖職売買のような悪習を禁じ、腐敗堕落を正した。
そしてミケランジェロにシスティナ礼拝堂の天井画を描かせ、ブラマンテにイタリア・ルネサンス最大の記念物、聖ピエトロ寺院の改築を行なわせ、ラファエロにバティカン宮の壁を飾らせたのも、この気宇(きう)雄大な教皇であった。
ユリウス二世のあとをついだのは「豪華王」ロレンツォの次男で、ピエロの弟にあたるメディチ家のジョバンニ(一四七五~一五二一)であり、一五二二年教皇レオ十世となった。
彼は政治的野心においても、文化の保護においても、アレクサンデル六世やユリウス二世の後継者として、ルネサンス期教皇の名に恥じなかった。
彼は独仏抗争を利用してその地位を保つとともに、芸術の保護に熱中したが、彼が教皇の地位につくことを喜んだのも、それによって、美と豪奢(ごうしゃ)に対する好みを満足させるための財源を、手に入れることができたからだともいわれる。
レオ十世は、イタリアが誇る有名な彫刻家や画家を身辺に集め、とくにラファエロを愛した。
そして神が与えたもうたからには、教皇権をできるだけ享楽しよう、と語ってはばがらぬこの教皇をいただいて、バチカン宮殿の楽の音はたえずローマの空にひびきわたり、教会はいわば社交上のクラブと変じ、そこではつねに美や芸術について談笑されたが、キリスト教については論ずる人も少なかったという。
レオ十世の生活も栄華をきわめたもので、その食卓の費用だけでも、ユリウス二世の出費のおよそ十倍に達し、そこには山海の珍味がもられ、会食者もおびただしかった。
教皇は会計係に財政状態を聞かず、金の出所を確かめることなく使いまくったので、財政はいつも乱れていた。
レオ十世は四十七歳で一五二一年末に世を去ったが、これについては毒殺も噂された。
教皇は多くの方面に惜財をつくっており、しかも教皇庁の金庫はまったくカラで、その柩(ひつぎ)を買う金すらこと欠くありさまたったそうである。
そしてこのレオ十世のとき、聖ピエトロ寺院の改築に金がたりず、大がかりな免罪符(めんざいふ)の販売となり、それがルターの宗教改革運動の発端となったことは、後述されるであろう。
一五一五年から、フランス王フランソワ一世(在位一五一五~四七)はシャルル八世、ルイ十二世と同じようにイタリアに軍を進めていたが、一五一九年より、これに対抗したのは神聖ローマ皇帝カール五世である。
この一五一九年、メディチ家ではロレンツォ二世が世を去りフィレンツェを統治するのは枢機卿(すうきけい)ジュリオ(一四七八~一五三四)である。
彼は「豪華王」ロレンツォの弟で暗殺に倒れたジュリアーノの庶子であるが、一五二三年、彼は選ばれて教皇クレメンス七世(在位一五二三~二四)となり、フィレンツェとローマに君臨することとなった。
彼は同じメディチ家の出身ではあるが、レオ十世にくらべると、その生活ははるかに地味であった。
しかし当時やはり芸術家や文人はローマに集まったが、じつはこの教皇の時代にそのローマは致命的な打撃をうけたのだ。
すなわちカール五世の権勢の強大化を恐れる教皇は、勢力均衡上からフランスに接近し、このためカールの軍はローマに迫ることとなった。
それはアルプスの南の豊かな富をめざして駆り出されたドイツ、スペインの凶暴貪欲(きょうぼうどんよく)な軍隊であった。
ドイツ傭兵のなかにはルター派で、カトリックに反感を持つ者が多く、スペイン傭兵はまったく無秩序な烏合(うごう)の衆である。
そのうえ給料支払いも十分でなく、また食糧も不足していた。
こうして一五二七年五月、「永遠の都」ローマは史上まれな掠奪と暴行のまえにおののいた。
それは都市や文化を破壊したばかりでなく、時代の精神そのものにも大きな打撃を与えた。
人間なるものが行なった暴虐のかずかずを眼(ま)のあたりにしたとき、人間尊重のルネサンス・ヒューマニズムの精神がたちなおりうるであろうか。
このいわゆる「ローマの掠奪」は、イタリア・ルネサンスの末期を画する重大な事件といえよう。
ローマにいたクレメンス七世はかろうじて避難したが、この事件に呼応してフィレンツェには反メディチ家の暴動が起こり、その支配から脱するにいたった。
そしてフランスも劣勢となったとき、教皇はこんどはカール五世に接近して、その力によって自分の権勢およびメディチ家の再興をはかった。
一五二九年、皇帝と教皇との軍はフィレンツェに迫る。
このとき、フィレンツェの防塞(ぼうさい)をつくることに関係したのがミケランジェロである。
ところが九月、彼は恐怖心から逃亡し、実現はしなかったが、フランス王フランソワ一世の保護を求めたほどであった。
彼は思いなおして十一月に帰来したが、敵の攻撃はすでに始まっており、フィレンツェは一五三〇年八月ついに降伏する。
フィレンツェ市民に対する処罰はきびしかったが、ある教会の鐘楼(しょうろう)に身をかくしていたミケランジェロは、クレメンス七世の保護のもとに身の安全をうるとともに、彼の傑作である諸像(昼と夜、朝と夕)をメディチ家の廟にきざむことにかえった。
弱さというか、逡巡(しゅんじゅん)というか、この大天才の性格と生涯におけるひとつのエピソードであろう。
降伏したフィレンツェでは、メディチ家を世襲の君主とする公国の成立となり、ここに伝統あるフィレンツェ都市共和国は姿を消すにいたった。
その後コジモ一世(一五一九~七四)は近隣を征服し、一五六九年教皇の許しをえて、トスカナ大公国を成立させた。しかしそれはもはや輝かしいルネサンスのメディチ家ではなく、君主としてのメディチ家の繁栄であろう。
また通説によれば、イタリア・ルネサンスの背景をなしていた経済上の発展は、しだいにこの半島を去り、ほかの半島――あのかずかずの大航海をなしとげ、新大陸アメリカやアジアからの成果にうるおうイベリア半島に移行していった。
こうしてフィレンツェ、ローマの文化が衰えたのち、イタリア・ルネサッス絵画の主流となったのはベネチア派であった。
これを代表するティチアーノ(一四九〇ころ~一五七六)は長い生涯を通じて制作をつづけ、華麗(かれい)な官能と色彩の美を確立した。
最後に、メディチ家はフランスの歴史に二人の女性を送ったことに注意しておこう。
一五三三年、当時フランソワ一世の王子、のちのアンリ二世の妃となったカテリーナ・デ・メディチ(カトリーヌ・ド・メディシズ、一五一九~八九)、一六〇〇年、アンリ四世と結婚したマリア・デ・メディチ(マリー・ド・メディシズ、一五七三~一六四二)である。
ともに夫王に先立たれ、ともに幼少な国王の摂政(せっしょう)となり、前者は宗教戦争時代のフランスに、後者は絶対主義発展期のフランスにその名をとどめた。
メディチ家の歴史を完全なものにするためには、この家名にふさわしく、権勢を望み、策謀にふけり、美を愛し、そして誇りに生きたこれらふたりの女性を、無視することはできない。
そしてこのうち、とくに重要なカテリーナは、本書中の十二章『聖バルテルミーの虐殺(ぎゃくさつ)』に登場するであろう。
