7-12-3 聖バルテルミーの虐殺
『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
12 聖バルテルミーの虐殺
3「殺せ、みな殺しにせよ!」
八月二十二日、婚儀の四日後、コリニーはルーブル宮を出て徒歩で近くの屋敷に帰る途中、銃弾に見舞われ、右手の人差し指がとび、また左腕に負傷した。
コリニーはこれにめげず、二人の友人につきそわれ、歩いて帰邸し、医師の手術を受けるとともに、王のもとへも報告の使者を送った。
シャルルは王宮でたまたま球戯に興じていたが、この知らせに怒りと驚きを示した。
しかしこの暗殺計画に母と弟が関係しているなどとは、王には想像もできないようであった。
プロテスタントの貴族たちは、王が事件に対して正当な処置をとることを期待した。
一方、暗殺未遂の報を昼食の席でうけとったカトリーヌは、蒼白となり、しばらくは身動きもしなかった。
そしてシャルルだけを見舞いに行かせたくないカトリーヌは、平静をよそおって同伴した。
それから事態は、つぎのように進んでいったらしい。
犯行の追及と、これに対する報復をコリニーに約したシャルルは、それがギーズ公のみならず、母と弟によって計画されたことを告げられた。
そこで王はギーズ公の追及をためらわざるをえなくなった。
二十三日夜八時ごろ、恐ろしい決意を固めたカトリーヌは、おどしや涙、あらゆる手管を弄して、この機会をのがさなかった。
彼女はプロテスタントの陰謀をもちだし、彼らが外国と通じて軍を動かそうとしている、王がただちにカトリック側について行動することによって、困難は救われるであろうと告げ、これに疑問をもつシャルル九世に対して、カトリーヌは最後の切り札を投げつけた。
もし王がためらうならば、カトリック側は王を見すてて独自の行動にうつり、国内は二勢力に分裂し、そして王権はとり残されてしまうであろうということである。
このおどしはシャルルの急所を突いた。
王にはよくわかっていたのだ、自分に代わってカトリック教徒を指導する者が、彼が大嫌いな弟アンジュー公アンリであることを――。
母、弟、大臣たちに取りまかれて、シャルルは思い悩んだすえ、急に立ちあがって叫んだ。
「彼らを殺せ、みな殺しにせよ、ただちに命令を出せ!」
王は狂ったように自室にかけこんだ。
この王の「突然ですばらしい変化」によって、カトリーヌ側にとって、その行動は王の命令を実行することとなり、願ってもない結果となった。
一時ゆくえをくらましていたギーズ公は宮廷に招かれ、王命によって軍隊が集められた。
そして八月二十三日夜おそく、パリの市長も王宮に呼びだされた。
王はいった。「プロテスタントたちが王と国家に対する陰謀をくわだてようとしており、王の臣民や王のパリ市を乱そうとしていることを知った」と。
そして市長は、市のすべての門を鍵で閉ざすこと、武器を市民たちに渡すことを命ぜられた。
すでにこの日の午後、プロテスタントたちがいる家には、しるしがつけられてあった。
カトリック教徒は帽子につけた白い十字架など、それとわかるいでたちをこらし、軍が要所、要所をかためる……。
八月二十四日、日曜日、キリストの使徒の一人であった聖バルテルミーの祭日、午前二時、シャルル九世、カトリーヌ・ド・メジシス、王弟アンジュー公アンリは寝床を離れて身支度をととのえた。
暑い夜であった。
ルーブル宮の庭は、武器の音や人声でさわがしくなり、それはしだいにパリの町々におよんでいった。
まずギーズ公アンリみずから、部下たちをひきいて、コリニーの邸宅へ向かった。
「王命できた」という言葉になんの疑いももたず、戸口を開いた守衛は、一語の警告を発するまもなく、一撃をくらって戸口に倒れた。
護衛兵たちは家具でバリケードを作ったが、乱入者はこれを乗りこえて階上にはいあがった。
それからくわしいことは不明である。兵士たちは窓からコリニーの死体を投げ、ギーズ公はこれを確認した。
ある目撃者によれば、ギーズ公はこの仇敵の血まみれな顔を蹴って、歩み去ったという。
コリニーの首にかけられた血ぞめのメダルには、「完全な勝利、あるいは確固たる平和、さもなくば名誉ある死」という銘があった……。
ギーズ一党はさらに新しい犠牲者を求めて町にでる。
サン・ジェルルマン・ロークセロワ教会の鐘が鳴るうちに、カトリックの軍勢がくりだされていった。
そして夜明けとともに全市にわたって虐殺が展開され、カトリック教徒たちは「ユグノーを殺せ」と叫びながら、殺しまわる。それは老若男女を問わず、赤子を刺し殺したり、妊婦の腹を立ち斬ったり、残酷な光景の連続であった。
「血はセーヌ川に向かって四方から流れ来り……往来を行くものはたえまなく窓から投げ出される死骸の下じきとなることを恐れた。」
ルーブル宮でも、婚儀のあとに残っていたプロテスタント貴族たちがまず血祭りにあげられた。
シャルルは宮殿のバルコニーから、みずからの命令によるこうした光景を眺め、王母も、おつきの貴婦人たちも、宮殿の窓から窓へと走りよって、虐殺のさまを見てまわるのであった。
マルクリートとの結婚によって、かろうじて難をまぬかれたアンリ・ド・ナバールは、心ならずもカトリックに改宗させられて’宮廷に軟禁された。
虐殺はパリから地方へ、また二十四日にかぎらず、数日、いや、九月から十月にかけてもつづいていった。
いったいどのくらい被害者が出たのか?
その数はきわめてまちまちであり、いろいろな数字が見うけられる。
パリだけでも二千とか、一万とか、これまた種々な数字があげられている。
なお当時のパリの居住者は二十一万、戸数は一万二干程度だったらしい。
要するに正確な被害者の数は不明というよりほかはない。
またプロテスタントのなかには外国に亡命したもの、カトリックに改宗した者もあった。
八月二十五日朝、シャルル九世はベッドを離れて、いつものように窓を開いた。
見渡したところ、まだ死体の全部はかたづけられていなかった。
九月にかけて、パリの墓掘り人たちは多忙であった。
二十六日、王はパリ高等法院の法官たちに謁見し、パリに起こったすべてのことが、自分の責任のもとに行なわれたことを表明した。
王はこの高等法院に支持され、パリ大学に是認され、教会から感謝をうけた。
シャルル九世は、スペインの国王~一五七一年十月レパント沖で、異教徒トルコ人の艦隊を敗北させたかのフェリペ大王に比せられるべき存在と、みずから誇った。
王が製作を命じた記念メダルには、王の肖像と一五七二年八月二十四日の日付と、そして「シャルル九世、反徒の征服者」という文字が用意されていたという。
外国ではまずローマで、フランス王から正式の報に接した教皇グレゴリオ十三世は、カトリック信仰の名によって行なわれたこの恐ろしい虐殺を、けっして非難したり悔やんだりはしなかった。
いや、それどころか、教皇は祝賀の大祭をもよおし、つぎのようにいったと伝えられる。
「この知らせは、五十回レパントの戦いでトルコ軍を破ることよりも喜ばしい。」
スペインの首都マドリードにおける反響も、ローマ以上であった。
フェリペ二世はただちにお祈りにゆき、またフランスの大使をよびよせて喜びあった。
王はこのとき笑ったが、これは王の生涯を通じてただ一度の笑いであったともいわれる。
しかし一方ではイギリス女王エリザベスは、知らせによって喪に服し、臣下たちもこれにならった。
フランスの大使が王宮にはいってきたとき、彼は死のような沈黙をもって迎えられた。
大使は、事件を王とその一族に対する陰謀の結果と説明したが、女王がこれを納得しないことは明らかであった。
虐殺を危うくのがれて、イギリスに渡ったフランスのプロテスタントも、わずかながらいたし、駐仏イギリス大使からの報告もとどいていたのである。