8-5-1 暗雲こめる大明

『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
5 暗雲こめる大明
1 皇帝と太監 (宦官の長官)
「宦官(かんがん)たる者は、文字を知り、政治に関与するべからず。ただ掃除の役あるのみ。」
明朝創業のはじめ、洪武帝は、宦官をこのように規定した。
王宮に出入りする門には「宦官は政事に関与するをえず、関与すれば、これを斬る」ときざみこんだ鉄製の牌がおかれていた。
出入りする者への戒めである。
ふしぎといえば、ふしぎかも知れぬが、旧中国で宦官の弊害を指摘する学者はあっても、廃止を皇帝に進言した学者は、まずない。
洪武帝の側近にも、宋濂とか、劉基や李善長などという、史上にのこる大学者がいた。
しかし、かれらが宦官の廃止を進言したという記録はない。
儒教の教学をやかましくいう中国で、なぜ宦官が存在したのか。後世、疑問におもう人はすくなくない。
もともと中国の学者が手本にした四書・五経などという経典には、宦官の廃止など一言も記されてはいない。
経典は、宦官を既成の存在とみなし、奇異とするむきはないかにうかがえる。
宦官を廃止するどころの話ではあるまい。
読書人(知識人)とか士大夫(インテリ)など、もっともらしい呼称をもつ古き中国の知識人たちは、宦官をいやしい者として、けいべつする傾向かつよかった。
かれらは宮刑(去勢の刑)によって下賤な宦官にされることを、屈辱と考えていた。
だから屈辱をふせぐために、宮刑の廃止を考えることはあっても、それが宦官そのものの廃止にはならない。
宮刑がなくなれば、宦官たりうる資格をもつ者がへる。
へれば民間から募集する。募集すれば、まずしい者は、自分たちで自発的に去勢し、宦官として宮廷のなかに入る資格をもとうとする。
宮刑にかわる自宮宦官の登場である。
知識人たちが考えていることは、皇帝というものはこうあるべきだ、官僚たるものはこうあらねばならない、民はこうすべきだなどという、それぞれの分(ぶん)についてである。
君主は君主、臣下は臣下、民は民。あらねばならぬ主義者たちが考えることは、あるべき秩序にすぎないこととなる。
それはかれらの理想の秩序であって、現実ではない。
いや、現実がそうでないから、もっともらしく理想の秩序をふりかざすことにもなる。
洪武帝が「宦官は、文字を知ってはいけない、政治にかかわってもいけない。
ただ掃除だけしておればよい」といったのも、その例にもれない。学者たちの助言で、建国当初の理想をしめし、実行させようとしたにすぎない。だが理想は、現実の前にたちまちくずれ去る。
「いったい、宦官は男か女か?」という人がある。
答えは簡単である。男であることにまちがいはない。
もし、これを男にして男にあらざる男、といえば奇妙にきこえよう。
去勢されて生殖能力のない男といえば、不潔とか、下品と考え、さもなくば好奇の対象になりやすい。
中国では去勢者のことを、浄身人などともいうが、事実は逆である。
去勢とは、要するに断種であり、男として子孫をつくれないようにする一方法である。
意図はちがうが、現代でも避妊とか優生保護とかの名目で存在する。
これを、もしむかしの中国流でいえば、自宮になる。
かっての去勢法は苦痛をともない、一歩あやまれば死にいたる残酷な手術であった。いまは医学の発達によって、それを克服しただけのことかも知れないのである。
そもそも宦官などというものは、断種の産物であり、去勢の産物であった。要するに、去勢者を宮廷で使用することによって、宦官というものが生まれたのである。
知識人たちが問題にしたのは、去勢そのものではなく、宦官のあるべき分なのである。
洪武帝も、はじめは理想にもえて宦官を規制したが、晩年には宦官の役所を設けている。
明代の十二監・四司・八局からなる宦官二十四衙門(がもん=役所のこと)の源流である。
現実の前に理想はあまりにももろかった。 国初の理想がまねいた結果のひとつが、親政と、その代償たる孤独であった。
その現実が必要とするにいたったものが、一族の諸子と、ここにいう宦官であったことは、まことに皮肉といわざるをえまい。
「わが翼を断ち切るつもりか。」
洪武帝の晩年、宦官の重用をいさめた者は、帝の怒りにふれるのみであった。
孤独の皇帝は孤独の宦官をみずからの片腕として信任するにいたったのである。
絶対的権力者と、側近の絶対的服従者。
もっとも高貴な人間と、もっとも下賤な人間。
数多くの妻妾と子どもをもつ皇帝と、妻も子どもも本来はありえない宦官。
相反(あいはん)する者の極限は、表裏一体となる。
常人でないことにおいて共通し、ある種の孤独性において共通する両者の相互依存は、両者の存在するかぎり、避けがたい宿命であったというべきか。
皇帝は他を斬殺することによって孤独への道をえらび、宦官はみずからの肉体を切りとることによって孤独への道をえらぶ。
ともに宮廷の住人として。
洪武帝は、孤独とはいえ、諸子の分封による策がのこされていた。
永楽帝には、それも信じられないものとなった。みずから招いた孤独の深化である。
たよるべき最後のものは、ただ宦官族のみであった。
洪武のころ、宦官は行政面について親政を輔佐するにとどまった。
それが永楽からのちになると、軍事や監察や財政の諸分野に進出した。
太監の名にふさわしく、独裁皇帝の権力を代弁した。
禍根をたつ手段の帰結が、宦官であった。
最大の禍根が、そこから生まれる宿命を秘めて。`
